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横光利一『夜の靴』再読メモ

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玉音と足駄の音

 横光利一『夜の靴』(1947年)を読み直しました。

 疎開日記の形式で書かれた小説です。

 未読の方のために,昭和20年8月15日が東北の農村にどのように到来したのかを印象的に描いた名文として,多くの人に引用されてきた冒頭部を紹介しておきます。
八月――日
  駆けて来る足駄の音が庭石に躓いて一度よろけた。すると、柿の木の下へ現れた義弟が真っ赤な顔で、「休戦休戦。」という。借り物らしい足駄でまたそこでつまずいた。つまずきながら、「ポツダム宣言全部承認。」という。
 「ほんとかな。」
 「ほんと。今ラジオがそう云った。」
  私はどうと倒れたように片手を畳につき、庭の斜面を見ていた。なだれ下った夏菊の懸崖が焔の色で燃えている。その背後の山が無言のどよめきを上げ、今にも崩れかかって来そうな西日の底で、幾つもの火の丸が狂めき返っている。
 「とにかく、こんなときは山へでも行きましょうよ。」
 「いや、今日はもう……」
  義弟の足駄の音が去っていってから、私は柱に背を凭せかけ膝を組んで庭を見つづけた。敗けた。――いや、見なければ分らない。しかし、何処を見るのだ。この村はむかしの古戦場の跡でそれだけだ。野山に氾濫した西日の総勢が、右往左往によじれあい流れの末を知らぬようだ。
 ポツダム宣言の受諾を表明した「玉音」に,借り物の「足駄の音」を対峙させ,「敗けた」(敗戦)という情報をうまく飲み込めないまま,現実感を喪失したような状況に陥っている「私」の心境が,空虚さを埋め合わせようとするかのような過剰なレトリックによって描き留められています。

敗戦後と震災後

 敗戦後の日々を山形県の鶴岡で過ごす作家の疎開日記として読まれてきた『夜の靴』ですが,久しぶりに読み直して気づいたことは,震災後という時間を生きる私たちとの類縁性です。

 東京大空襲をはじめ,何度も空襲の恐怖を経験し,戦争の惨状を目撃し,戦況が悪化の一途をたどる昭和20年の6月になって東北の農村で疎開生活を始めた「私」にとって,焼け野原のかわりに水田が広がる庄内平野の風景は,別世界のように感じられたに違いありません。

 しかも敗戦を経て人びとは,ばらばらになってしまいます。

 そういえば、この村の人たちも空襲の恐怖や戦火の惨状というものについては、無感動というよりも、全然知らない。このことに関して共通の想いを忍ばせるスタンダードとなるべき一点がないということは、今は異国人も同様の際だった。たしかに、知らせようにも方法のない村民たちと物をいうにも、も早や、どうでも良いことばかりの心の部分で、話さねばならぬ忍耐が必要だ。この判然と分れた心の距離、胸中はっきり引かれた境界線というものは、こちらには分っているだけで、向うには分らない。人情、非人情というような、人間的なものではなく、ふかい谷間のような、不通線だ。農民のみとは限らず、一般人の間にも生じているこの不通線は、焼けたもの、焼け残り、出征者や、居残り組、疎開者や受入れ家族、など幾多の間に生じている無感動さの錯綜、重複、混乱が、ひん曲り、捻じあい、噛みつきあって、喚きちらしているのが現在だ。怒鳴ったかと思うと、笑ったり、ぺこぺこお辞儀したかと思うと、ふん反り返り、泣き出したかと思うと、鼻唄で闊歩する。信頼をしあうにも、寸断された心の砕片を手に受けて、これがおのれの心かと思うと、ぱッと捨てる。

 東京から遠く離れた山形の農村で,敗戦後の現実を表現するために横光利一が創り出した言葉は,「不通線」というものでした。

 「焼けたもの、焼け残り、出征者や、居残り組、疎開者や受入れ家族、など幾多の間に生じている無感動さの錯綜、重複、混乱が、ひん曲り、捻じあい、噛みつきあって、喚きちらしているのが現在だ」というあたりは,福島第一原発からの距離や放射性物質の影響の大小,原発村との関係の濃淡,補償金の多寡などによってばらばらになってしまった被災地の人びとのことを語っているかのようです。

 あるいは,計画停電などの騒ぎが収まってきたころ,避難者を受け入れている地域の人びとが「東電から多額の補償金をもらって,働かないで毎日パチンコをしたり,寿司を食べたり,スマホを新しくしたり,贅沢をしている被災者は許せない」と憤りの声をあげていたことなどを思い出します。

 もしかすると,「絆」という言葉が声高に叫ばれていたのは,人びとが実はばらばらになってしまっていたことの裏返しだったのかもしれません。

 昭和20年の疎開日記に書きつけられていた「不通線」をめぐる叙述は,震災後に東浩紀が『思想地図βvol.2』の「巻頭言」の次のような叙述とそっくりです。

 震災でぼくたちはばらばらになってしまった。
 ちがう、と言うひとがいるだろうか。震災でぼくたちは「ひとつ」になったはずだと、日本は連帯を取り戻したはずだと主張するひとがいるだろうか。
 たしかにそのような側面もあるのかもしれない。いや、あったのかもしれない。震災直後の日本社会の高揚は記憶に新しい。マスコミもネットも震災情報で一色になった。企業は競って被災者に手を差し伸べ、義援金はあっというまに記録的な金額へ駆け上った。自衛隊の迅速な救援が称賛され、官房長官がなぜか英雄になり、挙国一致内閣の結成が囁かれた。多くの人々が(ぼくを含め)、日本はこの未曾有の災害を奇貨としてふたたび公共の精神を取り戻し、長い低迷を抜け新たな国に生まれ変わるのかもしれないと夢を見た。
 しかし、いま、5ヶ月後の現実はどうだろう。ぼくたちは「ひとつ」になっているだろうか。

 敗戦後と震災後がじつはそっくり同じであるという現実に,改めて瞠目させられます。

稲作共同体の崩壊

 去る3月23日,北海道大学で「横光利一文学会第12回大会」「日本近代文学会北海道支部例会」合同研究会が開催されました。(写真は懇親会の点景)

 テーマは『夜の靴』。韓然善さん,大川武司さん,井上明芳さんの3人が発表をしました。

 最初の2人が偶然にも“米をめぐる言説”あるいは“「米」というテクスト”について分析を加えていて,興味深く拝聴しました。

 発表を聞きながら考えたのは,絆を作り,共同性を立ち上げ,人びとを結び付けるはずの米あるいは稲作が,『夜の靴』の中ではむしろ人びとをばらばらにしてしまっているということでした。

  九月――日
 どこの農家もますます米が無くなって来た様子だ。馬鈴薯と南瓜で食べつなぐ家が多くなる。こんなとき芋を売る家は、米があるからだとすぐ分る。去年の供出に際して、持っているのに無い顔を装ったものの、露われてゆくのも今だ。米が無いということは、一種の誇りになり変って来ているのも今だ、各自の米を借り歩く不平貌に、ある物まで伏せてみせねばならぬ、急がわしげな歩調の悩みもある。明らかに有ることの分っている家へ集まる恨みから、超然とはしがたい苦しさや、いや、たしかに自分の家だけは無いという堅苦しい表情など、それらが雨の中をさ迷い歩く暇の間も、村の共同精米所だけは、どこにどれだけあるか、無いかをにらんだ静けさで、ひっそりと戸を閉めつづけている無気味さだ。

 米があるのに無い振りをして誤魔化した家と,正直に供出をして米が無くなってしまっている家。

 稲作による協働作業,贈与関係や相互扶助関係によって結ばれていた集落の人びとの共同性が,損なわれてしまっていることが,繰り返し描かれています。

 最終章の「十二月八日」以外の日付がすべて月を明示しながら日にちは「――」となっているのも,稲作を軸にした年中行事によって共有されている時間が損なわれていることを象徴しているのかもしれません。

 冒頭の「八月――日」から「十二月八日」までの間には,盂蘭盆会(8/15),重陽の節句(9/9),十五夜(9/中),秋の彼岸(9/下),新嘗祭(11/23)などの年中行事がありますが,『夜の靴』においてそれらの日付が自覚されることはないわけです。

 たとえば11月23日は,新しい憲法に基づいて制定された祝日法(1948)によって勤労感謝の日に変わってしまいましたが,本来は天皇が行う収穫祭である新嘗祭の日として認知されていました。

 『夜の靴』がこうした日付を伏せて書かれているのだとすれば,その意味は大きいと言わざるを得ません。

 共同体がばらばらになってしまい,秋祭りをすることができないまま,働くこともできず,毎日パチンコをして過ごすしかない人びとが,日付の意識や曜日の感覚を損なわれてしまっているように,『夜の靴』の私の時間意識は混濁していたということなのでしょう。





       未

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