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震災後文学として読む―中原中也「月夜の浜辺」

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「月夜の浜辺」という詩/死

 中原中也といえば「汚れっちまった悲しみに……」を思い浮かべる人が多いと思いますが,若い世代の日本人にとってはむしろ中学校の国語教科書に掲載されている「月夜の浜辺」の方がなじみ深いかもしれません。

 月夜の晩に、ボタンが一つ
 波打際に、落ちていた。

 それを拾って、役立てようと
 僕は思ったわけでもないが
 なぜだかそれを捨てるに忍びず
 僕はそれを、袂(たもと)に入れた。

 月夜の晩に、ボタンが一つ
 波打際に、落ちていた。

 それを拾って、役立てようと
 僕は思ったわけでもないが
    月に向ってそれは抛(ほう)れず
    浪に向ってそれは抛れず
 僕はそれを、袂に入れた。

 月夜の晩に、拾ったボタンは
 指先に沁み、心に沁みた。

 月夜の晩に、拾ったボタンは
 どうしてそれが、捨てられようか?

 一説には,わずか2歳の長男文也の死が背景にあるとも言われています。

 浜辺で拾ったボタンを捨てられずにいる「僕」の哀切な感情のほとばしりには,可愛いさかりの文也を喪った哀しみが秘められているという読み方です。

 一方で,文也の死の前に書かれていたのではないかと言う人もいます。

 作家の実生活に安易に結びつけて解釈するのではなく,「僕」とボタンの関係の中にもっと普遍的な哀しみを読み取ろうということなのでしょう。

 いずれにしても,「月」も「夜」も「海」も,「死」を象徴することのある言葉です。

 口語定型詩には,童謡のような響きが感じられ,どこか幼さを感じさせることが多いのですが,「月夜の浜辺」には幼さが孕む生命感とは対極の「死」のイメージが濃厚にただよっています。

 それは,「僕」が波打際という境界領域で「死」に瀕しているということかもしれませんし,あるいは,落ちているボタンの持ち主の「死」なのかもしれません。

最も重要な詩語

 「月夜の浜辺」の中で最も重要な詩語は何かと問われれば,多くの人が「月夜」や「ボタン」を挙げるのではないでしょうか。

 「月夜」はタイトルを入れて5回使われています。

 「ボタン」は4回使われています。

 多用されているということは,それだけ重要な詩語であると考えることができます。

 ちなみに「晩」も4回,「僕」も4回です。

 ところが,それらの語よりもずっと多く使われている詩語があります。



 「それ」です。



 全部で8回も使われています。

 しかも同じ「それ」が繰り返されているというよりは,一つとして同じものはなく,8回の「それ」がそれぞれに異なるニュアンスをはらんでいます。

 もちろん指示語の「それ」が何を指しているかということを国語の読解問題的に考えれば,「ボタン」です。

 したがって「ボタン」が4回,「それ(=ボタン)」が8回と考えれば,合計12回使われている「ボタン」が最も重要な詩語であることになります。

 しかし,「それ」は「それ」であって「ボタン」ではありません。

 特別に高価なボタンでも,特別に美しい「ボタン」でもないはずのその「ボタン」は,「僕」にとって捨てることのできない,他の何ものにも代えがたい特別な「ボタン」です。

 つまり,それはたんなる「ボタン」ではないのです。

 いや,もはや「ボタン」ではないのです。

 他の何ものにも代えがたい,名付けることすらできないような何ものかを,「僕」は「それ」と呼んでいるのではないでしょうか。

ちっぽけな漂着物が喚起するイメージ

 震災後に宮澤賢治「雨ニモマケズ」が注目されました。

 明治三陸津波の年である1896年に東北で生まれ,昭和三陸津波の年である1933年に東北で亡くなった宮澤賢治の生涯を考えると,何か運命的なめぐり合わせを感じざるを得ません。

 だだし「雨ニモマケズ」には三陸大津波のことが直接的に書き込まれているわけではありませんし,1931年に手帳に記された殴り書きのような“作品”に1933年の三陸大津波の影響があったと考えることもできません。

 それでも「雨ニモマケズ」は,震災後の日本において改めてその言葉の喚起力が見直されて多くの人びとの心を動かしました。

 「作者の意図」「発表時の時代背景」などを越えた新しい意味が,既存の詩に見出されたわけです。

 「詩を受容する現在」が「雨ニモマケズ」という詩の命を更新したと言ってもよいでしょう。


 中原中也の「月夜の浜辺」にも,同じように可能性が秘められている気がします。

 「月夜の浜辺」は,1933年3月に発生した昭和三陸津波のほぼ4年後にあたる1937年2月に発表されています。

 作られたのはその前年の1936年11~12月頃でしょうか。
 
 三陸津波のおよそ3年8ヶ月後ということになります。

 2011年3月の東日本大震災を起点としておよそ3年8ヶ月後というと,今年の11月頃ということになります。

 そこで,こんな妄想を。。。


    *    *    *


 たとえば今年の11月。

 月夜の晩に私が独り。

 湘南海岸を歩いています。

 何の気なしに波打ち際に近づくと,

 そこに小さな漂着物が。

 何かと思って手に取るとそれは…。


 もはやゴミとして捨てるしかないような代物ですが,

 元の持ち主にとっては,またその家族にとっては,

 かけがえのない物であるはずです。


 私はそれを捨てるに忍びず。

 それをポケットに突っ込みます。

 そんな風にして出会ってしまったそれは,

 私にとっては何の役にも立たないものですが,

 だからこそなおさら,それは捨てられません。


    *    *    *


 「どうしてそれが、捨てられようか?」という最終行は,2014年を生きる私にとって,そのような感情をはらんだものとして感受されています。

 月夜の晩に、ボタンが一つ
 波打際に、落ちていた。

 それを拾って、役立てようと
 僕は思ったわけでもないが
 なぜだかそれを捨てるに忍びず
 僕はそれを、袂(たもと)に入れた。

 月夜の晩に、ボタンが一つ
 波打際に、落ちていた。

 それを拾って、役立てようと
 僕は思ったわけでもないが
    月に向ってそれは抛れず
    浪に向ってそれは抛れず
 僕はそれを、袂に入れた。

 月夜の晩に、拾ったボタンは
 指先に沁み、心に沁みた。

 月夜の晩に、拾ったボタンは
 どうしてそれが、捨てられようか?


付記1

 この詩のボタンについて,ワイシャツのボタンではなくて,もう少し大きいカーディガンとかジャケットのボタンとかを漠然と想像していましたが,考えてみると「月夜の浜辺」が発表された1930年代には,私が想像するような一般的なプラスチックのボタンはなかったはずです。

 調べてみると,牛乳を原料とするカゼインプラスチックのボタンや貝ボタン,金属製のボタン,木製のボタンなどが使われていたようです。


付記2

 湘南海岸の漂流物の話をしましたが,相模湾に外海からの漂流物が流れ着くということはあまりないと思います。

 漂流物の大半は,おそらくは今日のような大雨に際に相模川や境川から流れ出た塵芥の類です。

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