多彩な桜が織り成す並木道の映像は圧倒的でしたが,そもそもこの桜並木が関東大震災と関係していることを初めて知り,なおさら感慨深いものがありました。
「理想の文教都市」を目指して開発が進められ,大学移転と足並みをそろえて国立駅も開業し,市街地が整備され,やがて1934年に大学通りに桜の植樹が行われることになります。
1934年というと関東大震災から11年も経っているわけですが,福知山線脱線事故から9年目にあたる先週の4月25日や,阪神淡路大震災から19年目にあたる今年1月17日にテレビなどで流れていた遺族や被害者の様子を見る限り,10年経っても20年経っても消えないものは消えないのだと痛感させられます。
新しく整備された谷保村に移転した人びとの中には,関東大震災の生き残りとして新天地での生活を始めた人も少なくなかったはずです。
1923年の関東大震災から1930年の帝都復興祭を経て大学通りに桜が植樹されるという時間の流れの中に,多くの死者への鎮魂の思いと,復興への熱い気持ちが底流していたに違いないのです。
そのような思いの中で,大学通りの桜は植えられ,それから毎年見事な花を開き,そして散り,年輪を重ねてきたわけです。
東京都内の多くの桜も,死者への鎮魂の思いと,新しい時代への期待の中で植樹されたものです。
とりわけ若木の頃から花を開くソメイヨシノは,若葉が出る前に花だけを楽しめることから好んで植えられました。
そしてソメイヨシノは,種子で増えることがなく,接ぎ木でしか繁殖しないクローン種であるからこそ,そこに暮らす人びとの心の歴史と無関係に存在することができないのです。
たとえば,隅田公園について記したページの中に,次のような記述がありました。
大正12年(1932)の関東大震災は隅田川沿いの人々に大きな打撃を与えました。住宅、工場はもとより、江戸時代から続く名所・墨堤の桜も壊滅的な状態となりました。そのような中、帝都復興計画事業の一環としての防災公園、隅田公園は大正14年から着工し、昭和6年に開園しました。 機能的ではありましたが、味気ない公園に憩いと潤いを与えようと、当時の吾妻橋親和会の人々44人が、江戸から続く墨堤の桜を復活させようと、多くの桜を植栽しました。
1000本もの桜が楽しめる隅田公園ほどではありませんが,震災復興公園として整備された浜町公園にも錦糸町公園にも多くの桜が植樹されています。
そして防災公園として整備されたのは,隅田公園のような大規模公園だけではありません。
都内各所の小学校に隣接する形で「震災復興小公園」も整備されました。
防災目的なので植栽には基本的には常緑樹が使われたようですが,学校教育に役立てるためにそれ以外の樹木も植えられ,その中には当然ソメイヨシノがあったかもしれませんし,敷地内に桜を植えた復興小学校は少なくなかったはずです。
インターネット上に公開されている山積みになった遺体の白黒写真(朱雀堂文庫所蔵の写真)でその惨状の一端を垣間見るだけでも,愕然とせざるを得ません。
これらのおびただしい数の死者たちの大半は,葬儀らしい葬儀が執り行われることもなく埋葬されました。
もちろん,中にはねんごろに弔われた遺体もあったでしょうけれど,全ての遺体をただちに火葬して納骨することは困難だったはずで,穴を掘って「仮埋葬」された身元不明の犠牲者が大半を占めていたと思われます。
どんな場所に「仮埋葬」されたのか,詳しいことはよくわかりませんが,避難場所としても使われるような広い遊休地や公園などの一角などが選ばれたことは十分に考えられます。
震災復興公園や復興小学校の敷地も,震災時には遺体が運び込むために使われた土地だった可能性があります。
そう考えると,美の中に惨劇を見出した散文詩であるなどと評される梶井基次郎の特異な表現は,じつは事実をありのままに語っただけの単なる“散文”に過ぎないと言えるのかもしれません。
そして,「桜の木の下には屍体が埋まつてゐる!」などと書けるのは,梶井基次郎が大震災の当事者ではなかったからなのだと思えてきます。
実際に“遺体の片付け”がどのように行われたのかを知っている人や,きれいに整備された公園にかつて屍体が積み上げられていたことを知っている人は,そのことをあえて「散文詩」として表現することはないはずだからです。
東日本大震災後の表現空間がどのような振幅の中で展開するものであるのかを見てきた私が,「桜の木の下には屍体が埋まつてゐる!」などと書いてしまう梶井基次郎に感じるのは,“デカダンスの美意識”というよりもむしろ“デリカシーの欠如”なのです。
(つづく)