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大滝詠一の死を悼む―「日本語ロック論争とボクシングをする詩人たち」より

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 昨日,12月30日の午後5時半ごろ,大滝詠一が亡くなりました。

 享年65歳。

 リンゴをかじっているときに倒れ,119番通報で救急搬送する際には既に心肺停止状態だったそうです。

 年の瀬の訃報。昭和も20世紀もどんどん遠ざかる感じで,寂しい限りです。

 日本語ロックの歴史,Jポップの歴史を語る上で欠かすことのできない偉大なアーティストの死を悼み,「大滝詠一と内田裕也」という記事を再掲します。

 歴史の審判はもちろん,大滝詠一に軍配をあげたわけで,ソングライターとしての活躍はもちろんのこと,CMやテレビ番組とのタイアップやプロデューサーとしての活躍を含め,こんな場所では語り尽くせぬくらい多くの足跡を残しました。

 心からご冥福をお祈り申し上げます。


 日本語ロック論争とは?

 日本語の歌詞がファンキーな音楽に乗せて歌われたり,日本語によるラップが次々にヒットしたり,日本語によるロックの可能性が真剣に論じていた時代から考えると,信じられないような状況が目の前にあります。

 「日本語ロック論争」(別名「はっぴいえんど論争」)と言っても知らない方が多いでしょうけれど,1970年代初頭の日本で,「ロックは日本語で歌うべきか,はたまた英語で歌うべきか」ということが真剣に議論されていました。(フリー百科事典『ウィキペディア』/「日本語ロック論争」へ

 まったく今から考えると,冗談のような論争ですが,「小学生に英語教育は果たして有効か」という問題と同じぐらいに真剣に議論されていたのです。

 論争の発端は,『新宿プレイマップ』1970年10月号です。当時フラワー・トラベリン・バンドを率いていた内田裕也と,はっぴいえんどの大滝詠一が,「ニューロック」をテーマにした座談会の中で鋭く対立しました。

▽久民(LICK・UP・PLAYER)
「ボクなんか見てて思うのは,使う言葉が日本語でありながらビートは向うのまんまということの不釣合のようなもの。つまり,日本語の歌というのは,やっぱり浪曲なんですよ。知らず知らずのうちに身につけちゃってる。(中略)もう一度,日本語の体系とリズム,日本人の体質という点を考えてもいいんじゃないかと思うけど,裕也なんかどうですか。」

▽内田裕也(フラワー・トラベリン・バンド)
「前に日本語でやった時があるんですよ。やっぱり歌う方としては“のらない”というんですよね。(中略)もし日本語で唱うより,英語で唱って言葉が判らなくても“のって”説得できれば,その方がいいと思いますね。それにフォークと違ってロックはメッセージじゃないし,言葉で“戦争反対,愛こそ全て”と云うんじゃなくて若い連中がそこにいてそこにロックがあれば,何か判りあっちゃうと思うし,言葉は重要だと思うけど,ボクはそんなにこだわらない。でも大滝君達が日本語でやるというのなら成功してほしいと思う。」

▽大滝詠一(はっぴいえんど)
「ボクは別にプロテストのために日本語をやっているんじゃないんです。何か,日本でロックをやるからには,それをいかに土着させるか長い目で見ようというのが出発点なんです。ボクだって,ロックをやるのに日本という国は向いていないと思う。(中略)でも,日本でやるというのなら,日本の聴衆を相手にしなくちゃならないわけで,そこに日本語という問題が出てくるんです。」

 あの内田裕也に対して大滝詠一は,「でも成功したいという理由でコピーばっかりやってるというのは逃げ口上じゃないですか」なんていう挑発的な発言をしてしまっています。

 内田裕也は「日本語のオリジナルが好きな奴もいるし、向うのコピーの好きな奴もいるし、アナタはコピーを馬鹿にした言い方をするけど、アナタは自分のバンドよりうまくコピー出来る自信あるわけ?」っていう感じで切り返しているんですが,もう完全にキレちゃってます。

 この座談会で飛び出した問題は,『ニュー・ミュージック・マガジン』1971年5月号の座談会「日本のロック情況はどこまで来たか」に引き継がれることになります。

 どうやら1970年当時は,日本人にとって日本語のロックは「のらない」ものだったようなのです。日本語で楽曲作りをしていた大滝詠一ですら,「ロックをやるのに日本という国は向いていない」と言っているぐらいですから。

 日本人の音楽耳は変わったか?

 はっぴいえんどのアルバム「風街ろまん」を聴くと,ロックというよりフォークソングみたいな曲も含まれているのですが,どの曲も「のらない」という感じはあまり受けません。
 日本語を洋楽的なメロディーやリズムに乗せていることに対する違和感はあまりありません。

 たとえば「はいからはくち」などは,鈴木茂のギターも細野晴臣も最高に格好良くて,ファンキーなアレンジといい,松本隆の詞といい,いま聴いてもまったく古びていません。“日本語ロック史上に残る名曲”と言っていいと思います。

 でもきっと,演歌的な音階やリズムに慣れた1970年代の日本人の耳には,どこか奇妙な音楽に聞こえたのではないかと思います。それが「新しさ」でもあったわけでしょうけれど。

 たとえばラップ音楽も,佐野元春が1984年にリリースしたアルバム『VISITORS』によって日本の音楽シーンに本格的に持ち込まれるわけですが,私の感覚では,90年代前半ぐらいまでの日本語のラップは聴けたもんじゃありませんでした。これも,作り手の問題であると同時に,聴く側の耳の問題もあるのではないかと思うわけです。

 もちろん佐野元春の「コンプリケーション・シェイクダウン」なんかは最高に格好良くて,日本語ラップとしては驚異的な完成度の高さです。でも,決め所では英語が使われていて,日本語部分は柔軟性を持つ耳を持った若者以外には奇妙な歌に聞こえたはずです。

 90年代になっても同じことです。紅白歌合戦が視聴率の点で苦戦していたことからもわかるように,演歌耳の日本人にとっては,安室奈美恵の歌すら聴き取ることが困難だったわけです。



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