「がっしりした体格の中背の男」が一緒でした。
その男は「濃い色合いのジャケットを着て、ブルーのシャツに、小さなドットの入った紺のネクタイ」を締めています。
「きれいに整えられた髪には、いくらか白いものがまじって」いる「中年の男」です。
2人が「仲よさそうに手を繋いで」歩いていたことに,沙羅が「そのとき心から嬉しそうな顔をしたいたこと」に,多崎つくるは衝撃を受けます。
この男がいったい誰であるのかということは,多崎つくるにとっても,多崎つくると370ページにわたる巡礼をともにする読者にとっても,気にせずにはいられない謎です。
でも謎解きはありません。
それが村上春樹ワールドの作法なのです。
しかしながら,青山という場所に現れるおしゃれな装いの中年男子のイメージは,私の中では村上春樹の姿に重なります。
今年63歳の村上春樹ですが,見た目は50代…いや40代と言っても通用するかもしれません。
実物を対面したことがないのでわかりませんが,イメージ的にはどう考えても還暦過ぎの老年男子ではありません。
そういうわけで私は,38歳の沙羅といっしょに手を繋いで歩いている紺のネクタイの男を,村上春樹に相当する多崎つくるの父の世代だと見なして読んでいました。
ただ,青山の場面をよく読むと,「たぶん五十代前半だろう。顎が少し尖っているが、感じの良い顔立ちだった。」と書いてあって,沙羅の父親だと考えるのはちょっと無理があるようです。
それでもやはり,多崎つくるを傷つけるこの男,村上春樹と同じ世代の男であり,多崎つくるや沙羅の父の世代,つまりは団塊の世代の男だという気がしてなりません。
なぜか。
死者となる(である)直子と生者である緑という2人の女性のあいだにワタナベが配置されるという構図は,シロと沙羅と多崎つくるという3者関係として再現されています。
ただし,大きな違いもあって,それは多崎つくるがワタナベの息子の世代として設定されていることです。
36歳という設定の多崎つくるは,作中現在が2013年であると仮定すれば,1976(昭和51)年ないしは1977(昭和52)年生まれであるということになります。
ちょうど,1949(昭和24)年生まれの村上春樹が,27歳から28歳ぐらいのときに誕生したことになります。
そして多崎つくるが高校を卒業したのは,1995(平成7)年3月です。
震災が起きた神戸と地下鉄サリン事件が起きた東京のあいだにある名古屋で高校を卒業したことになります。
2つの事件のあいだの時期に大学入試を受けるために新幹線で東京まで行っているはずで,なかなかきわどい年齢設定であることになります。
さらに興味深いのは,世代間格差という問題を考えた時に,村上春樹が属する団塊の世代は,多崎つくるが属するロスジェネ(ロストジェネレーション=失われた世代)に対しては,言わば“最大の加害者”に相当するということです。
フリーターとか派遣社員という身分で30代になり,正社員としてフルタイムで働くことができないロスジェネに対し,激烈な競争社会を生き抜いて日本を大きく成長させた団塊の世代の成功者が「頑張れば何とかなる」というアドバイスを口にして激しく反発されるという場面を,NHKの討論番組で見たことがあります。
ああいう世代間抗争を見つめる村上春樹の眼差しが,多崎つくるという作中人物の造型に一役買っている気がするのです。
両親の影が薄いところに特徴があると言われてきた初期の村上春樹の小説に比べ,『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』に団塊の世代の人物が親の世代として登場していることにも,何か意味がありそうです。
村上春樹には子どもがいないはずですが,どうして死ぬことばかり考えている息子の世代のロスジェネ男子を主人公とする小説を書いたのか,小説を読むことに安易に世代論を持ち込むべきではないのかもしれませんが,このあたりのことがどうにも気になっています。
(つづく)