中学国語の定番教材です。
その「走れメロス」についての研究発表を聴く機会に恵まれました。
奥山文幸さんの「教材『走れメロス』の誕生」(日本文学協会近代部会/2014.8.18)です。
奥山さんによると,「走れメロス」をいちばん最初に教科書に採録したのは,1956(昭和31)年に秀英出版が発行した『近代の小説』だそうです。
現在は中学2年生用の教科書に掲載されている「走れメロス」ですが,意外なことに最初に採録されたのは高校生用の教科書でした。
しかも「黙れ、下賤の者。」や「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。」など,教育上好ましくないとして現在カットされていたり、かつてカットされていたりした言葉がそのまま削除されずに載っていました。(「下賤」や「まっぱだか」がNG!)
それにしてもなにゆえにスキャンダラスな情死事件で生涯を終えた,スキャンダラスな作家である太宰治の小説が,昭和30年代の国語科教科書に載ったのでしょうか。
また,なにゆえにそれは「走れメロス」だったのでしょうか。
奥山さんの発表は,『近代の小説』という教科書を編集した日本文学協会のメンバーが,文学や教育にどのように向き合っていたのかを,多くの資料を参照しながら考察したものでした。
私はその発表を聴きながら,ときどき独りで妄想モードに入り,レジュメの余白に思いつきをメモしていました。
今日はそのメモに基づいた与太話を書き散らしてみます。
発表されたのは, 1940年(昭和15年)5月発行の雑誌『新潮』です。
翌6月には単行本『女の決闘』(河出書房)に収録されています。
家庭人として精神的に安定した生活を送り,ポジティブなイメージの小説をたくさん書いた太宰治中期の代表的な作品です。
ここらへんから与太話になります^^;
さて,与太話その1です。
「走れメロス」を執筆しようとしていた時期の太宰治(本名:津島修治)の意識に影響を与えたかも知れない現実の出来事として,皇紀2600年の恩赦(2月11日実施)をあげることができます。
この出来事は,1921年11月に東京駅で原敬首相を刺殺し,1934年に恩赦により釈放された中岡良一の記憶を呼び起こします。
〈権力者とナイフと恩赦〉というセットは,「走れメロス」と同じです。
「王を除かねばならぬ」と決意したメロスが「短剣」を懐に隠し持って城に乗り込んで捕まってしまったにもかかわらっず,最終的には恩赦を受けて死刑をまぬかれるのです。
さてさて,続いて与太話その2です。
〈権力者とナイフと恩赦〉というセットの代わりに,〈弾圧と同志と家〉というセットを抽出してみます。
まるで転向文学です。
もちろん,権力に弾圧されることで同志を裏切り家父長制に屈服するのが転向文学であるとするなら,権力者に弾圧されながらも同志を裏切らず家父長制との両立をはかるのが「走れメロス」です。
すなわち「走れメロス」は,非転向小説,アンチ転向小説,脱転向小説なのです。
転向の嵐が吹き荒れた時代の後に執筆された「走れメロス」は,同時代を生きている転向者にとっては,自分がなり得なかった“もう一人の自分” を描いたロマンチックな小説だったのだと言えます。
大地主の家に生まれたという後ろめたさから左翼運動に加担したにも関わらず,結局は活動家としての己を全うすることのなかった太宰治にとっても,メロスは同じような意味合いにおいて“もう一人の自分” だったに違いありません。
しかもそれは,政治的な活動からの転向(裏切り)ということだけではなく,心中したにもかかわらず自分一人だけが生き残ってしまったという事件とも響き合うところがあります。
そのようにして生まれた「走れメロス」は,信念を貫き,誰も裏切らず,誰も殺されることなく,みなが生き残る物語です。
同志を裏切り見殺しにしてでも生きていくしかないという時代であるからこそ,信頼と友情の物語が生み出され,受容されていったのだということです。
同志を裏切り見殺しにしてでも生きていくしかない時代…です。
転向文学が書かれた1930年代や「走れメロス」が書かれた1940年代のことだけを言っているわけではありません。
1956年に初めて教科書に採録されて定番教材として受容されている「走れメロス」がいまだに求められ続けているのだとすれば,対米戦争から対米従属へと180度の転換を果たした(余儀なくされた)敗戦後はもちろんのこと,21世紀の今でも私たちは同志を裏切り見殺しにしてでも生きていくしかない時代のさなかにいるということなのかもしれません。
…いやいや,この話はやはり,与太話!?