ところが,夏休みが終わっても容易に終わらないのが夏休みの宿題です。
そして,夏休みの宿題の定番と言えば,自由研究と読書感想文です。
おそらくどちらの宿題にも,独創性とか個性とかというものが求められます。
しかし,小学生はもちろん,中学生や高校生だって,そう簡単に独創的な自由研究や個性的な読書感想文を仕上げられるわけではありません。
自分独自のアイデアを思いつくことができないまま悶々とした日々を過ごし,時間ばかりが過ぎてゆき,いつの間にか夏休みが終わってしまう…ということが起きてしまいがちなのも無理はありません。
それにしても,夏休みの宿題としての自由研究や読書感想文には,どんな意味があるのでしょうか。
たとえば,ある高校で次のような夏休みの宿題が出されたと仮定します。
●国語→国語便覧に載っている文学者の著作を1冊選んで読み、感想文を書け。
●数学→数学をテーマにした本を1冊選んで読み、感想文を書け。
●英語→英語の短編小説を一つ選んで読み、感想文を書け。
●社会→歴史小説を1冊選んで読み、感想文を書け。
●理科→科学の歴史に関する新書を1冊選んで読み、感想文を書け。
●音楽→クラシックの名曲を1曲選んで聴き、感想文を書け。
…以下省略。。。
●数学→数学をテーマにした本を1冊選んで読み、感想文を書け。
●英語→英語の短編小説を一つ選んで読み、感想文を書け。
●社会→歴史小説を1冊選んで読み、感想文を書け。
●理科→科学の歴史に関する新書を1冊選んで読み、感想文を書け。
●音楽→クラシックの名曲を1曲選んで聴き、感想文を書け。
…以下省略。。。
感想文ぜめです。
ここまで多くはなくとも,教科ごとに別々の先生が教える中学や高校においては,感想文の宿題が2つも3つも出てしまうというケースは珍しいことではないでしょう。
こんな風に追い込まれたとき,子どもたちがどうなるか?
一部の生徒(あるいは多くの生徒)が感想文お助けサイトにアクセスしたり,ネット上に転がっているレビューからのコピペに走ったりすることは必然です。
独創性とか個性とか,あるいは著作権の意義うんぬんというような話よりも,目の前の宿題をこなすことが子どもたちにとっては死活的に重要だからです。
感想文の宿題が国語だけだったとしても,英語文法の問題集100ページ+数学の問題集100ページ…のように大量の宿題が出されれば,同じように感想文お助けサイトやコピペに救いを求めるに違いありません。
しかも感想文の対象を自由に選ぶことができるのであれば,多種多様なものが取り上げられることになりますから,丸写しのコピペをしたとしても,発覚する可能性もきわめて限定的なものになってしまうでしょう。
宿題を安直に仕上げてやり過ごすという“成功体験”を持った生徒が,大学に行ってから何をするのか…と考えれば,火を見るより明らかです。
その段階で発覚すればまだよいのでしょうけれど,大学のレポート作成でコピペをした学生がさらに“成功体験”を積み重ねていけばどうなるでしょうか…。
これはもはや独創性とか個性を育てるための宿題などではなく,要領よく他人のものをサンプリングしたりパクったりして「自分のもの」を作り上げるレッスンでしかありません。
もちろん,サンプリングしたりパクったりすることのなかにも創造力が必要です。
また,他人が書いたものに手を加えつつ配列する作業を意図的・自覚的に行えば,それはまさしく“編集”であり,これはこれでクリエイティブな営為であると言えます。
しかし,感想文を書くという宿題は,編集作業のレッスンとして行われているわけではありません。
おそらくは「本をたくさん読んで欲しい」ということや「読んだ本について自分なりの感想を持って欲しい」ということなどから出されるものです。
「自分なりの…」です。
でも,そんなことができる子どもはそんなに多くはありません。
もともとは宮川俊彦さんが小学生用に考案した読書感想文を仕上げるための極意「なたもだの術」が,いまや小論文作成の裏技として流布してしまっている現状も,子どもたちがいかに感想文という宿題にいかに適応してきたかということの反映なのかもしれません。
これまた,独創性や個性が求められますが,そう簡単にはいきません。
市販されている対策本やネットに転がっている情報から,自分にやれそうなものを選び,パパやママに手伝ってもらって仕上げる…というのが,小学生の基本パターンでしょう。
中学生になると,さすがにパパやママに手伝ってもらうケースは減るでしょうが,市販されている対策本やネットに転がっている情報から選択するというやり方は変わりません。
「自由研究」というのは,「自由な発想で独創的な調査や分析を行う研究」ではなくて,「すでに誰かがやった調査や分析を自由に真似して行う研究」になってしまっているのかもしれません。
ただしそういうことができるのは,一部の限られた子どもたちだけです。
大半の子どもたちにとって夏休みの宿題は,他人のふんどしを借りて安直かつ要領よく仕上げるものになってしまっています。
こういう土壌が,広い意味での小保方問題を生み出してしまったのではないか…というのが,この記事を通して書きたかったことです。
小保方晴子さんおよびSTAP細胞に対する世の中の評価は,180度転換しました。
さらに180度転換して元に戻ってしまう可能性も皆無ではありません。
ただ,画像の流用などについてはご本人もミスを認めているようですし,論文作成のプロセスに問題があったことは確かなようですから,ここではそういう研究者のふるまい自体を“広い意味での小保方問題”と呼びたいと思います。
…というわけで,ふと思い立って書き始めた駄文を結びます。
“広い意味での小保方問題”を生み出したのは,夏休みの宿題のあり方に象徴される日本の文化的土壌なのではないでしょうか。