「ドライブ・マイ・カー」の煙草ポイ捨て描写
北海道の町議会議員有志が質問状を送って抗議したことで,村上春樹の新作「ドライブ・マイ・カー」(『文芸春秋』2013年12月)に出てくる「中頓別町」という町名が,単行本として出版される際に変更されることになりました。みさきはそれを聞いて少し安心したようだった。小さく短い息をつき、火のついた煙草をそのまま窓の外に弾いて捨てた。たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう。
質問状自体を読むことはできないのですが,インターネット配信されている新聞各社の報道によると,「町にとって屈辱的な内容。見過ごせない」「町民は傷ついている。過ちは見過ごせず、遺憾の意をお伝えする」「町の9割が森林で防災意識が高く、車からのたばこのポイ捨てが『普通』というのはありえない」「村上氏の小説は世界中にファンがおり、誤解を与える可能性がある。回答が得られなければ町議会に何らかの決議案を提出したい」などという思いがあって送付されたもののようです。
この場面では,雨が降っている設定だから,山火事の心配はないだろうというピント外れな感想を漏らす人もいます。
埼玉県民や足立区民なども,映画や小説などでしばしば偏見混じりの人物設定をされることがあり,今こそ中頓別町と共同戦線を張って抗議の声をあげるべきだなどと悪乗りして主張する人もいます。
もう少し穏当に,フィクションなのだからいちいち目くじらを立てる必要はない,と言う人もいます。
たしかに,女性ドライバーには「いささか乱暴すぎるかいささか慎重すぎるか」の二種類しかいないとか,「常習的な酒飲みのおおかた」が話すべきではないことを自分から進んで話すとか,「ドライブ・マイ・カー」の中には,女性蔑視的な発言や酒飲み蔑視的な発言もあります。
これらについていちいち目くじらを立て,公的な組織が出版社に質問状を送付するというような事態は,ふつうは起こりません。
というか,こういう表現を不愉快に思ったのなら,村上春樹の小説を読まなければいいわけです。
また,女性蔑視的な発言や酒飲み蔑視的な発言に共感している人や,フィクションなのだから鷹揚に構えている人,そもそもそういうことに無頓着だったり鈍感だったりする人は,いちいち目くじらを立てません。
私も酒飲みの端くれですが,村上春樹に腹を立てることはありませんでした。
三人称で書かれているとは言え,俳優をしている「家福」という作中人物に視点を置いていますから,地の文に書かれていることはいちおうすべて彼の認識や価値観を描写したものであると解釈していたからです。
中頓別町にも,女性にも,酒飲みにも,作中人物の高槻にも渡利にも,そしておそらく亡くなった妻に対しても,一面的なものの見方しかできないからこそ家福は,心の中の空洞を埋めることができず,周囲の世界とうまく折り合いをつけることもできずに,「悲しい芝居」を演じ続けなければならないのだろうと受け止めていました。
「ドライブ・マイ・カー」の著作権を有している村上春樹という作家と,語り手,さらには作中人物の家福は,それぞれ別個のものであると見なすのが小説を読む上での基本的な約束事だと私は考えています。
しかし,それでもやはり,中頓別町の人々にとって不愉快な描写であることに変わりはありませんし,作中人物の考えの背後に村上春樹の中頓別蔑視的な感性がある可能性を否定することもできません。
そもそもフィクションである以上,実在の地名を使わなければならない必然性がないはずですから,あえて特定の地域の人々を不愉快にする書き方を選択することはなかったはずなのです。
村上春樹は作中の地名を変更するという声明を迅速に出しました。
連名で質問状を送り,「町民の防災意識は高い。『車からのたばこのポイ捨てが普通』というのは事実ではなく、町をばかにしている。そもそも町の実名を出す必要があるのか」と怒っていたという東海林繁幸町議は,「村上さんの誠意を感じた。今後、違う形で町を紹介してもらえるとうれしい」というコメントを出して,とりあえず一件落着したようです。
めでたし,めでたし…と言いたいところですが,私の気持ちの中には,何だかちょっと嫌な感じが残っています。
そのことを書き留めておこうと思います。
政治家です。
したがって今回の出来事は,大げさに言えば,表現の自由に対する政治家の弾圧であり,大ざっぱに見れば,ETV特集の「問われる戦時性暴力」放送に際して政治家が圧力をかけたのではないかと言われている「NHK番組改変問題」と同じ構図の事件なのです。
これが,中頓別町に住む愛読者からの抗議であるとか,一般町民の有志による質問状であるとか,インターネットで拡散した怒りのつぶやきであるとか,組織や権力とは無関係な人びとの声に対する一作家の反応であったなら,「何だかちょっと嫌な感じ」はなかったでしょう。
もちろん,町の規模や歴史によって町議会のありようはさまざまですから,中頓別町の町議会議員というのは限りなく「町民有志」に近いのかもしれません。
少なくとも,町議会議員というものはしばしば「町民以上,政治家未満」の存在であって,国政に関わる政治家と同一視すべきではないのかもしれません。
とは言え,曲がりなりにも政治権力の側にいる人々が,表現の自由によって擁護されるべき小説言語に対して“圧力”をかけたわけです。
それが出版社および文学者によって受け入れられ,社会的にも易々と容認されてしまったわけです。
そういう出来事を前に私は,どうしても「何だかちょっと嫌な感じ」を覚えざるを得ないのです。
明日、ママがいない
だから…というわけではないのでしょうけれど,芦田愛菜主演のテレビドラマ「明日、ママがいない」をめぐって物議を醸している放送中止騒動についても,「何だかちょっと嫌な感じ」を禁じ得ません。 まとめサイトなどを見ると,こういう場合の常として,日テレに対する激しいバッシングが目立ちますが,一方で放送中止を求めたこうのとりのゆりかご(俗称:赤ちゃんポスト)の慈恵病院や全国児童養護施設協議会を批判する声も挙がっています。
一例をあげれば,児童養護施設で育った方が,自らの当事者性を背景にしながら,放送中止を求めた人たちを次のように批判しています。(「明日、ママ」全国児童養護施設協議会の会見について)
ドラマ自体、一話でも 「子どもが里親を選ぶ事ができない現実」 をちゃんと伝えてくれていましたし、 「施設の子どもが事件を起こすと、施設の子が悪者にされるという現実」 これらも、ちゃんと放映してくれていました。 少なくとも私の当時の子ども目線と同じです。 (中略) このドラマは、被害にあった子どもの目線に近いものがあります。 被害児童の声を主に問題提起をしていると私は思います。 施設職員の方の重労働は事実でしょう。テレビはテレビで 「かりんの家」 といった素晴らしいグループホームも取り上げてくれています。 だからと言って、あなた方の要請を受けて 「施設は素晴らしい」 「里親は素晴らしい」 といった番組のみを作ったとして、里親の元や施設の元で被害に遭う児童がいたらどうするのですか。
表面的には非人間的に見える「魔王」こと佐々木友則のふるまいは,おそらく彼なりの愛情表現なのでしょうし,その背後には彼の暗い過去が透けて見えています。
というか,第1話の伏線が第2話以降のストーカーまがいの行為をめぐる人間模様の中で,すでにだいぶ種明かしされてきています。
施設の子どもたちをペットに例えているのも,彼の冷酷な心の発露と言うよりは,むしろ施設の子どもたちに向けられた一般社会の大人たちのまなざしの反映であり,視聴者が属している社会のありようを告発するという機能すら持っているように思えます。
町議会議員の有志VS出版社&作家という構図と,医療法人&社会福祉法人VSテレビ局という構図。
総合雑誌に収録された短編小説と,全国ネットで放送されたテレビドラマ。
自分が住む場所に対する誇りを傷付けられたことに対する憤りと,トラウマを抱えた子どもたちを守らなければならないという使命感。
さまざまな差異をはらむ二つの出来事には,質問状や抗議の内容に十分に首肯できるところがあると思いながらも,それでもなお「何だか嫌な感じ」が私の中にはわだかまっています。
法的な手続きによらず,また市民運動や消費者(視聴者)運動としてでもなく,ドラマが放送中止に追い込まれるという事態が現実化してしまったとしたら,たぶん私の中にはさらに暗澹たる「何だか嫌な感じ」がわき起こってきていたに違いありません。
(つづく?)