私が乗っているバスにTシャツ姿の若者が乗り込んできた。
ドアが閉まると,なぜかすぐにステップに逆戻り。
最後部の座席に座っていた私から見ていても,明らかに挙動がおかしい。
「なかに入って下さい」とうながす運転手を無視するようにでんでん虫の唄を歌い始めた。
ワンフレーズ歌うたびに,背中を前ドアに激しく打ちつける。
バスが微妙に揺れている。
ライオンに追いかけられてパニックに陥ったイボイノシシがバスに体当たりしているような異様な音が響きわたっている。
運転手が座ったまま声をかけているけれども,手のつけようがない乱心ぶりだ。
街の中心部から郊外に向かう朝のバスには,私のほかにはご老人が5人いるだけである。
シルバーシートに座っていたご老人が,降ろしてくれと運転手に訴えかけて後部ドアからそそくさと車外へ退避した。
他のご老人は前ドアに近い場所に座っている方が多く,身じろぎもせずに事態の推移を見守っている。
運転手は出発することができない。
異様な空気が車内に充満する。
若者は,でんでん虫の唄を歌いながら,よろよろと歩き,開いたままの後部ドアのステップに移動した。
そのまま降りてくれればよかったのだが,ドアの開口部に立ったまま歌い続けている。
でんでん虫の唄のヘビーローテーションだ。
所持品はいっさいなくて,ずり落ちかけたジーンズのポケットにも何も入っていない。
いきなりナイフで刺されたりすることはないだろうとわかったので,立場上(車内でいちばん若く体力もありそうな男子)なんとかしなくてはならないと思い,鞄を肩にかけたままゆっくり若者に近づく。
バス停にはご老人が3人ほどいて,前ドアのところで運転手と話し始めた。
断片的に聞こえてきた会話から,すでに110番通報をしているらしいとわかり,少し安心した。
とりあえず若者をバスから降ろすことに。
若者は依然として,でんでん虫の唄のヘビーローテーションである。
若者は,バスに乗ることを躊躇していた様子の路上のご老人に近づいて,でんでん虫について何やら懸命に訴えている。
傍観しているわけにもいかないので,若者に近づき,背中に手をそえて,「ね、ね、ね、おじいちゃんにちょっかい出すのはやめようよ」と話しかける。
若者は身体の向きを変え,私に正対しつつも目線は虚空に向けている。
でんでん虫の唄のヘビーローテーション。。。
汗臭いが,酒臭くはない。
ここで何と,バスの運転手は,ドアを閉めて発進しようとした。
バスに乗りたかったのに乗れなかったご老人やいったん降りてしまったご老人が2人ほど,慌ててドアに近づき,バスに乗せろと要求する。
ドアが開く。
運転手は,2人のご老人をバスに乗せると,若者と私を置き去りにして発車してしまった。
ご老人の安全を考えれば,当然の判断なのだろう。
「私はどうすれば…」と思ってバスをうらめしい気持ちで見つめ,視線をドアミラー越しに運転手の方へと投げかけた。
その瞬間のことだった。
若者はバスに向かって猛ダッシュ!
バスは若者を振り切るようにあわてて加速する。
若者は後部ドア付近に手をかけたままバスと並走する。
バスは恐怖にかられたようにさらに加速する。
バスに手をかけて疾走していた若者の足が宙を舞った。
次の瞬間,若者は後部タイヤ付近で激しく転倒した。
瞬間的に「轢かれた」と思ったが,かろうじて下敷きになることは回避されていて,バスはそのまま走り去る。
若者はふらふらと車道を歩き始める。
そこへようやくパトカー。
私は,近くにいた人とともに,若者を懸命に指さした。
警官にねじ伏せられたあの若者は,いったい今どうしているのだろうか。