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死者のためのえびフライ―三浦哲郎の「盆土産」を読む

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 日本文学協会の国語教育部会夏期研究集会に出席するために,中学校の国語教科書に収録されている三浦哲郎「盆土産」を読み直しました。

 ちょうどお盆休みの真っただ中でもありますし,つらつらとレビューを書き留めてみます。



 ネタバレを気にしなくてはいけないようなオチはないと思いますが,いちおうネタバレ注意!です。

 

冷凍食品 えびフライ

 「盆土産」は,1987年度版の光村図書出版『国語2』に収録されて以来,30年近くにわたって教科書に収録され続けている短編小説です。

 中学の国語教科書において光村図書は長年にわたり最大のシェアを誇っていますから,30代以下の方の多くは「盆土産」を読んだことがあるはずです。

 主人公は小学3年生の少年です。

 盆の入りが間近に迫った8月11日,町の郵便局から赤いスクーターがやってきて,東京に出稼ぎに行っている父親からの速達が届きます。

 封筒の中には伝票のような紙切れが一枚入っていて,そこには「盆には帰る。十一日の夜行に乗るすけ。土産は、えびフライ。油とソースを買っておけ。」と記されています。

 東京の上野駅から十時間近くかかる山間地に住んでいる少年にとって,「えびフライというのは、まだ見たことも食ったこともない」ものであり,謎に満ちた土産品です。

 沼にいる小エビなら知っていますが,それがフライになるというのがわかりません。

 姉に聞いても「どったらもんって……えびのフライだえな。」などと言うだけで,要領を得ません。 

 天ぷらのかき揚げのようなものや小エビをすりつぶしたコロッケのようなものを想像しますが,祖母に尋ねてみてもはぐらかされるばかりです。

 祖母は、そうだともそうではないとも言わずにただ、
「……うめもんせ。」
とだけ言った。

 どうやら姉も祖母も「えびフライ」というものを知らない様子なのです。

 父親はそんなえびフライを紙袋に入れ,「空気に触れると白い煙になって跡形もなくなる氷」(=ドライアイス)で懸命に冷やしながら東京から持って来ます。

 そんなにまでして紙袋の中を冷やし続けなければならなかったわけは、袋の底から平べったい箱を取り出してみて、初めてわかった。その箱の蓋には、『冷凍食品 えびフライ』とあり、中にパン粉を付けて油で揚げるばかりにした大きなえびが、六尾並んでいるのが見えていた。

 一般の家庭には電気冷蔵庫がなかった時代,冷凍食品自体が一般にあまり普及していなかった時代の話なのでしょう。

 調べてみると,えびフライが冷凍食品として商品化されたのは,1962年のことです。

 澁川佑子さんの「「てんぷら×魚フライ」で誕生したエビフライ」によると,「1962(昭和37)年、冷凍水産品の製造と販売を行っていた加ト吉水産(現テーブルマーク)は、冷凍食品の『赤エビフライ』を発売。これをきっかけに、エビフライはお弁当のおかずとしても人気を博して」いったそうです。

 真新しい空色のハンチングをかぶり,「冷凍食品 えびフライ」を土産に帰省する父親の様子から考えると,高度経済成長期,日本がオリンピック景気に沸き立ちお盆休みも返上して国立競技場や新幹線や首都高速道路を突貫工事で完成させた1964年の,その次の年あたりではないかという気がします。

 今年もお盆休み返上かと思ったけど,そこまでは忙しくなかったので帰省できた…という感じです。

 ただ,もう少し時代が下ってからの話ではないかと思わせる部分もあります。

 同じように父親が帰っているらしい隣の喜作が,「真新しい、派手な色の横縞のTシャツをぎこちなく着て、腰には何連発かの細長い花火の筒を二本、刀のように差して」いるという描写があります。

 いかにも高度経済成長期っぽいディテールですが,1965年頃だとするとTシャツという単語が一般に流布していないはずですし,ましてや東北の田舎に住んでいる小学生が知っているはずもありません。

 語り手が作中現在の少年の意識をなぞっているのだとすれば,1970年代の物語であることになるわけです。

 ただ,1970年代の半ば以降だとすると,東京に出稼ぎに行っている父親以外の人間がみな「えびフライ」というものを知らないのは不自然です。

 Tシャツという単語は,作中現在の少年の意識をなぞって使われているのではなく,「濃淡の著しいボールペンの文字」とか「祖母は歯がないから、言葉はたいがい不明瞭」などと同じように,語り手の意識を反映して使われている言葉なのでしょう。(…と考えるしかなさそうです。)

 ちなみに,もしも1965年の物語だとすれば,小学校3年生の主人公は1956年生まれで,父親はおそらく1935年ごろの生まれです。

「えんびフライ……。」とつぶやいた理由

 6尾のえびフライを4人で食べた翌日の8月13日,午後から死んだ母親が好きだったコスモスとききょうの花を摘みながら共同墓地へ墓参りに出かけます。

 祖母は、墓地へ登る坂道の途中から絶え間なく念仏を唱えていたが、祖母の南無阿弥陀仏は、いつも『なまん、だあうち』というふうに聞こえる。ところが、墓の前にしゃがんで迎え火に松の根をくべ足しているとき、祖母の『なまん、だあうち』の合間に、ふと、「えんびフライ……。」
という言葉が混じるのを聞いた。

 えびフライのしっぽをのどに引っかからせて咳き込んでしまい,「歯がねえのに、しっぽは無理だえなあ、婆っちゃ。えびは、しっぽを残すのせ。」と父親から諭される祖母の人柄が伝わってくる場面です。

 少年はこう思います。

 祖母は昨夜の食卓の様子を(えびのしっぽが喉につかえたことは抜きにして)祖父と母親に報告しているのだろうかと思った。そういえば、祖父や母親は生きているうちに、えびのフライなど食ったことがあったろうか。祖父のことは知らないが、まだ田畑を作っているころに早死にをした母親は、あんなにうまいものは一度も食わずに死んだのではなかろうか――そんなことを考えているうちに、なんとなく墓を上目でしか見られなくなった。

 少年の家族は,祖母と姉と出稼ぎをしている父親で4人です。

 父親が盆土産に買ってきたえびフライは「六尾入り」でした。

 つまり,墓に入っている祖父と母親を合わせた6人家族にぴったりの数なのです。

 昨夜の食事の際,「四人家族に六尾」という「配分がむつかしそう」な状況に対して,「お前(おめ)と姉(あんね)は二匹ずつ食(け)え。おらと婆っちゃは一匹ずつでええ。」と父親は明快に述べたわけですが,少年と姉が食べたえびフライは死者に供えるために用意されたものだったのかもしれないわけです。

 「なんとなく墓を上目でしか見られなくなった」という少年の胸中に去来していたのは,死者を勘定に入れずにえびフライを二つ食べてしまったことに対する後ろめたさなのです。

 (お盆なのに死者のことをうっかり忘れていて,生者だけでワイワイ楽しんでしまうことって,ありがちですよね。)

 したがって,以下の場面の少年の胸中に去来しているものも,もう一度えびフライを買ってきてほしいという食欲やら物欲やらだけではないでしょうし,父親との別離の寂しさということだけでもないはずです。

 父親はとって付けたように、
「こんだ正月に帰るすけ、もっとゆっくり。」
と言った。すると、なぜだか不意にしゃくり上げそうになって、とっさに、
「冬だら、ドライアイスもいらねべな。」
と言った。
 (中略)
 バスが来ると、父親は右手でこちらの頭をわしづかみにして、
「んだら、ちゃんと留守してれな。」
と揺さぶった。それが、いつもより少し手荒くて、それが頭が混乱した。んだら、さいなら、と言うつもりで、うっかり、
「えんびフライ。」
と言ってしまった。

 混乱した少年の頭の中には,「早死にした母親」に対する愛着の気持ちや死者のことを忘れてえびフライを食べてしまったことに対するうしろめたさが底流している気がします。

 また,そもそも父親が盆土産のえびフライを持って帰省してきたのは死者に会うためであったのだということに対する気付きと,そういう気付きの向こう側に父親の喪失感を感受している少年の姿が描かれている気がします。

 ですから「えんびフライ」という発話の後に続く言葉には,「また買ってきて」とか「おいしかったね」とか「ありがとう」などだけではなくて,さまざまな可能性が秘められています。

 (たとえば「母ちゃんにも食べさせたかったね」とか…。)

 ちなみに,少年が1956年頃の生まれ,父親が1935年頃に生まれたと仮定すると,祖父は1915年頃の生まれ。

 戦場で死んだ可能性のある世代であることになります。

 戦死したと仮定すると,人生の半分はいわゆる「十五年戦争」の時代です。

 つまり,えびフライを食べるような高度成長期の豊かさとは縁遠いの時代を生きたことになります。

一人称小説/三人称小説

 「盆土産」は一人称小説に見えます。

 そう読むのが自然です。

 しかしまったく一人称は使われていません。

 冒頭部は以下の通りです。

 えびフライ、とつぶやいてみた。
 足元で河鹿が鳴いている。腰を下ろしている石の陰にでもいるのだろうが、張りのあるいい声が川に漬けたゴム長のふくらはぎを伝って、膝の裏をくすぐってくる。

 ここに一箇所だけ一人称を使ってみます。
 
 えびフライ、とつぶやいてみた。
 足元で河鹿が鳴いている。腰を下ろしている石の陰にでもいるのだろうが、張りのあるいい声が川に漬けたゴム長のふくらはぎを伝って、僕の膝の裏をくすぐってくる。

 これで一人称小説になります。


 同様に,一箇所だけ三人称を使ってみます。

 えびフライ、とつぶやいてみた。
 足元で河鹿が鳴いている。腰を下ろしている石の陰にでもいるのだろうが、張りのあるいい声が川に漬けたゴム長のふくらはぎを伝って、哲郎の膝の裏をくすぐってくる。

 これで三人称小説になります。(かりに「哲郎」としましたが,もちろん「拓哉」でも「潤」でもかまいません^^)

 一人称も三人称も,頻繁に使う必要はありません。

 ときどき思い出したように一人称または三人称のいずれかを一貫して用いることで,どういう視点で書かれている小説であるのかを明確にしながら小説を書くことができます。

 しかし「盆土産」では,一人称小説にも三人称小説にも確定できない,なんとも中途半端な叙述の方法が取られているのです。

 もう詳述する余裕はありませんが,これが「盆土産」という小説の大きな特徴になっています。

夏休みの宿題と小保方問題―感想文と自由研究について

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夏休みの宿題

 地域によってはすでに2学期が始まっていて子どもたちの夏休みは終わりました。

 ところが,夏休みが終わっても容易に終わらないのが夏休みの宿題です。

 そして,夏休みの宿題の定番と言えば,自由研究と読書感想文です。

 おそらくどちらの宿題にも,独創性とか個性とかというものが求められます。

 しかし,小学生はもちろん,中学生や高校生だって,そう簡単に独創的な自由研究や個性的な読書感想文を仕上げられるわけではありません。

 自分独自のアイデアを思いつくことができないまま悶々とした日々を過ごし,時間ばかりが過ぎてゆき,いつの間にか夏休みが終わってしまう…ということが起きてしまいがちなのも無理はありません。

 それにしても,夏休みの宿題としての自由研究や読書感想文には,どんな意味があるのでしょうか。

読書感想文

 さしあたり読書感想文について考えてみます。

 たとえば,ある高校で次のような夏休みの宿題が出されたと仮定します。

●国語→国語便覧に載っている文学者の著作を1冊選んで読み、感想文を書け。
●数学→数学をテーマにした本を1冊選んで読み、感想文を書け。
●英語→英語の短編小説を一つ選んで読み、感想文を書け。
●社会→歴史小説を1冊選んで読み、感想文を書け。
●理科→科学の歴史に関する新書を1冊選んで読み、感想文を書け。
●音楽→クラシックの名曲を1曲選んで聴き、感想文を書け。
 …以下省略。。。

 感想文ぜめです。

 ここまで多くはなくとも,教科ごとに別々の先生が教える中学や高校においては,感想文の宿題が2つも3つも出てしまうというケースは珍しいことではないでしょう。

 こんな風に追い込まれたとき,子どもたちがどうなるか?

 一部の生徒(あるいは多くの生徒)が感想文お助けサイトにアクセスしたり,ネット上に転がっているレビューからのコピペに走ったりすることは必然です。

 独創性とか個性とか,あるいは著作権の意義うんぬんというような話よりも,目の前の宿題をこなすことが子どもたちにとっては死活的に重要だからです。

 感想文の宿題が国語だけだったとしても,英語文法の問題集100ページ+数学の問題集100ページ…のように大量の宿題が出されれば,同じように感想文お助けサイトやコピペに救いを求めるに違いありません。

 しかも感想文の対象を自由に選ぶことができるのであれば,多種多様なものが取り上げられることになりますから,丸写しのコピペをしたとしても,発覚する可能性もきわめて限定的なものになってしまうでしょう。

 宿題を安直に仕上げてやり過ごすという“成功体験”を持った生徒が,大学に行ってから何をするのか…と考えれば,火を見るより明らかです。

 その段階で発覚すればまだよいのでしょうけれど,大学のレポート作成でコピペをした学生がさらに“成功体験”を積み重ねていけばどうなるでしょうか…。

 これはもはや独創性とか個性を育てるための宿題などではなく,要領よく他人のものをサンプリングしたりパクったりして「自分のもの」を作り上げるレッスンでしかありません。

 もちろん,サンプリングしたりパクったりすることのなかにも創造力が必要です。

 また,他人が書いたものに手を加えつつ配列する作業を意図的・自覚的に行えば,それはまさしく“編集”であり,これはこれでクリエイティブな営為であると言えます。

 しかし,感想文を書くという宿題は,編集作業のレッスンとして行われているわけではありません。

 おそらくは「本をたくさん読んで欲しい」ということや「読んだ本について自分なりの感想を持って欲しい」ということなどから出されるものです。

 「自分なりの…」です。

 でも,そんなことができる子どもはそんなに多くはありません。

 もともとは宮川俊彦さんが小学生用に考案した読書感想文を仕上げるための極意「なたもだの術」が,いまや小論文作成の裏技として流布してしまっている現状も,子どもたちがいかに感想文という宿題にいかに適応してきたかということの反映なのかもしれません。

自由研究

 というわけで,自由研究の話です。

 これまた,独創性や個性が求められますが,そう簡単にはいきません。

 市販されている対策本やネットに転がっている情報から,自分にやれそうなものを選び,パパやママに手伝ってもらって仕上げる…というのが,小学生の基本パターンでしょう。

 中学生になると,さすがにパパやママに手伝ってもらうケースは減るでしょうが,市販されている対策本やネットに転がっている情報から選択するというやり方は変わりません。

 「自由研究」というのは,「自由な発想で独創的な調査や分析を行う研究」ではなくて,「すでに誰かがやった調査や分析を自由に真似して行う研究」になってしまっているのかもしれません。


小保方問題

 もちろん読書感想文でも自由研究でも,子どもたちが本来的な意味において独創的かつ個性的なものを仕上げることはあります。

 ただしそういうことができるのは,一部の限られた子どもたちだけです。

 大半の子どもたちにとって夏休みの宿題は,他人のふんどしを借りて安直かつ要領よく仕上げるものになってしまっています。

 こういう土壌が,広い意味での小保方問題を生み出してしまったのではないか…というのが,この記事を通して書きたかったことです。

 小保方晴子さんおよびSTAP細胞に対する世の中の評価は,180度転換しました。

 さらに180度転換して元に戻ってしまう可能性も皆無ではありません。

 ただ,画像の流用などについてはご本人もミスを認めているようですし,論文作成のプロセスに問題があったことは確かなようですから,ここではそういう研究者のふるまい自体を“広い意味での小保方問題”と呼びたいと思います。

 …というわけで,ふと思い立って書き始めた駄文を結びます。

 “広い意味での小保方問題”を生み出したのは,夏休みの宿題のあり方に象徴される日本の文化的土壌なのではないでしょうか。

定番教材「走れメロス」―佐郷屋留雄と転向文学

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教材「走れメロス」の誕生

 今年の2月に「走れメロス」は走っていなかった!? 中学生が「メロスの全力を検証」した結果が見事に徒歩という話題で注目された太宰治の「走れメロス」

 中学国語の定番教材です。

 その「走れメロス」についての研究発表を聴く機会に恵まれました。

 奥山文幸さん「教材『走れメロス』の誕生」(日本文学協会近代部会/2014.8.18)です。

 奥山さんによると,「走れメロス」をいちばん最初に教科書に採録したのは,1956(昭和31)年に秀英出版が発行した『近代の小説』だそうです。

 現在は中学2年生用の教科書に掲載されている「走れメロス」ですが,意外なことに最初に採録されたのは高校生用の教科書でした。

 しかも「黙れ、下賤の者。」「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。」など,教育上好ましくないとして現在カットされていたり、かつてカットされていたりした言葉がそのまま削除されずに載っていました。(「下賤」や「まっぱだか」がNG!)

 それにしてもなにゆえにスキャンダラスな情死事件で生涯を終えた,スキャンダラスな作家である太宰治の小説が,昭和30年代の国語科教科書に載ったのでしょうか。

 また,なにゆえにそれは「走れメロス」だったのでしょうか。

 奥山さんの発表は,『近代の小説』という教科書を編集した日本文学協会のメンバーが,文学や教育にどのように向き合っていたのかを,多くの資料を参照しながら考察したものでした。

 私はその発表を聴きながら,ときどき独りで妄想モードに入り,レジュメの余白に思いつきをメモしていました。


 今日はそのメモに基づいた与太話を書き散らしてみます。

「走れメロス」をめぐる与太話

 そもそも「走れメロス」とはどのような小説なのでしょうか。

 発表されたのは, 1940年(昭和15年)5月発行の雑誌『新潮』です。

 翌6月には単行本『女の決闘』(河出書房)に収録されています。

 家庭人として精神的に安定した生活を送り,ポジティブなイメージの小説をたくさん書いた太宰治中期の代表的な作品です。



 ここらへんから与太話になります^^;



 さて,与太話その1です。

 「走れメロス」を執筆しようとしていた時期の太宰治(本名:津島修治)の意識に影響を与えたかも知れない現実の出来事として,皇紀2600年の恩赦(2月11日実施)をあげることができます。

 このとき恩赦を受けた人物として最もよく知られるのは阿部定ですが,注目したいのは1930年11月に東京駅で濱口雄幸首相を銃撃した佐郷屋留雄が恩赦により釈放されていることです。

 この出来事は,1921年11月に東京駅で原敬首相を刺殺し,1934年に恩赦により釈放された中岡良一の記憶を呼び起こします。

 〈権力者とナイフと恩赦〉というセットは,「走れメロス」と同じです。

 「王を除かねばならぬ」と決意したメロスが「短剣」を懐に隠し持って城に乗り込んで捕まってしまったにもかかわらっず,最終的には恩赦を受けて死刑をまぬかれるのです。



 さてさて,続いて与太話その2です。

 〈権力者とナイフと恩赦〉というセットの代わりに,〈弾圧と同志と家〉というセットを抽出してみます。

 まるで転向文学です。

 もちろん,権力に弾圧されることで同志を裏切り家父長制に屈服するのが転向文学であるとするなら,権力者に弾圧されながらも同志を裏切らず家父長制との両立をはかるのが「走れメロス」です。

 すなわち「走れメロス」は,非転向小説,アンチ転向小説,脱転向小説なのです。

 転向の嵐が吹き荒れた時代の後に執筆された「走れメロス」は,同時代を生きている転向者にとっては,自分がなり得なかった“もう一人の自分” を描いたロマンチックな小説だったのだと言えます。

 大地主の家に生まれたという後ろめたさから左翼運動に加担したにも関わらず,結局は活動家としての己を全うすることのなかった太宰治にとっても,メロスは同じような意味合いにおいて“もう一人の自分” だったに違いありません。

 しかもそれは,政治的な活動からの転向(裏切り)ということだけではなく,心中したにもかかわらず自分一人だけが生き残ってしまったという事件とも響き合うところがあります。

 そのようにして生まれた「走れメロス」は,信念を貫き,誰も裏切らず,誰も殺されることなく,みなが生き残る物語です。

 同志を裏切り見殺しにしてでも生きていくしかないという時代であるからこそ,信頼と友情の物語が生み出され,受容されていったのだということです。

 同志を裏切り見殺しにしてでも生きていくしかない時代…です。

 転向文学が書かれた1930年代や「走れメロス」が書かれた1940年代のことだけを言っているわけではありません。

 1956年に初めて教科書に採録されて定番教材として受容されている「走れメロス」がいまだに求められ続けているのだとすれば,対米戦争から対米従属へと180度の転換を果たした(余儀なくされた)敗戦後はもちろんのこと,21世紀の今でも私たちは同志を裏切り見殺しにしてでも生きていくしかない時代のさなかにいるということなのかもしれません。

 …いやいや,この話はやはり,与太話!?

震災後文学論(1)―芥川龍之介

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関東大震災と芥川龍之介

 昭和文学のはじまりを象徴する出来事として,関東大震災芥川龍之介の死をあげることができます。

 大正12年9月1日と昭和2年7月24日。1923年と1927年。およそ4年の時を隔てた2つの出来事は,一見まったく無関係にも見えます。

 でも,2011年の東日本大震災から三年を経た2014年という時点に立ってみると,2つの出来事が無関係だと考える方が不自然だと思えてきます。

 「ぼんやりした不安」という言葉を遺した芥川龍之介の自殺の原因についてはこれまでにもさまざまに議論されてきましたが,どのような原因を想定するにしても「だから自殺した」と単純に結論づけることはできないでしょう。

 「或旧友へ送る手記」(『東京日日新聞』1927.7.25)に書きつけられているように,「生活難とか,病苦とか,或は又精神的苦痛とか,いろいろの自殺の動機」などと列挙するほかにはなく,大半の自殺は,たとえ引き金となる出来事を特定できたとしても,それだけが理由であると断定できるほど単純なものではないはずです。

 そこにはおそらく,本人にすら意識できない要因が横たわっています。

 そうだとすれば,芥川龍之介が「ぼんやりした不安」を感じて自殺を選び取った原因の一つに,関東大震災という出来事を想定することも可能なはずです。

 たとえば,「大震雑記」(『中央公論』一九二三・一〇)の中で芥川龍之介は「焼死した死骸を沢山見た」と語り,浅草仲見世の収容所にあった印象的な死骸にまつわる挿話を書き留めています。

 焼け残った「メリンスの布団」に足を伸ばし,覚悟を決めたようにゆかたの胸の上に手を組み合わせた「病人らしい死骸」の話です。

 苦しみ悶えた様子も見せず,唇に微笑を浮かべているのではないかと思えるような静かな死骸のたたずまいに芥川龍之介は感じ入るのですが,「それはきつと地震の前に死んでゐた人の焼けたのでせう」という妻の一言で「小説じみた僕の気もち」が興醒めになってしまいます。

 対象を描写する近代的な口語体による淡々とした文章の中にむしろ,震災後の現実に向き合いながらも作家としての矜恃を保とうとする芥川龍之介の不安定な魂が感じられます。

 同じく震災直後に書かれている「大震日録」(『女性』一九二三・一〇)と「大震に際せる感想」(『改造』一九二三・一〇)では,一転して文語体が駆使されています。

 ただし,日記という体裁のせいでしょうか,前述した「大震雑記」と同じように比較的淡々と綴られている印象の「大震日録」と比べて,「大震に際せる感想」の書きぶりには激しい感情の起伏が見て取れます。(※青空文庫の「大正十二年九月一日の大震に際して」参照)

 日比谷公園の池に遊べる鶴と家鴨とを食はしめし境遇の惨は恐るべし。されど鶴と家鴨とを、――否、人肉を食ひしにもせよ、食ひしことは恐るるに足らず。自然は人間に冷淡なればなり。人間の中なる自然も又人間の中なる人間に愛憐を垂るることなければなり。鶴と家鴨とを食へるが故に、東京市民を獣心なりと云ふは、――惹いては一切人間を禽獣と選ぶことなしと云ふは、畢竟意気地なきセンティメンタリズムのみ。
 自然は人間に冷淡なり。されど人間なるが故に、人間たる事実を軽蔑すべからず。人間たる尊厳を抛棄すべからず。人肉を食はずんば生き難しとせよ。汝とともに人肉を食はん。人肉を食うて腹鼓然たらば、汝の父母妻子を始め、隣人を愛するに躊躇することなかれ。その後に尚余力あらば、風景を愛し、芸術を愛し、万般の学問を愛すべし。

 この部分は,「地震のことを書けと云ふ雑誌一つならず。何をどう書き飛ばすにせよ,さうは註文に応じ難ければ、思ひつきたること二三を記してやむべし。」と書き出されているのですが,震災後の東京の酸鼻を極めた現実の中で,職業作家であるがゆえに書くことを強いられている芥川龍之介の,憤怒に似た懊悩が伝わってきます。

 「大震に際せる感想」は,「この大震を天譴と思へ」と言った渋沢栄一に対する反駁をモチーフとしていて,後半部には次のような言葉も書きつけられています。

 誰か自ら省れば脚に疵なきものあらんや。僕の如きは両脚の疵、殆ど両脚を中断せんとす。されど幸ひにこの大震を天譴なりと思ふ能はず。況んや天譴の不公平なるにも呪詛の声を挙ぐる能はず。唯姉弟の家を焼かれ、数人の知友を死せしめしが故に、已み難き遺憾を感ずるのみ。我等は皆歎くべし。歎きたりと雖ども絶望すべからず。絶望は死と暗黒とへの門なり。

 この小文を「同胞よ。冷淡なる自然の前に、アダム以来の人間を樹立せよ。否定的精神の奴隷となること勿れ。」と結んだ芥川龍之介自身が,皮肉にもわずか三年後に「否定的精神の奴隷」となり,「死と暗黒への門」をくぐったことを考えれば,これらの激しい言葉の中にむしろ,書き手の精神が深刻な危機に瀕している兆候を読み取らなければならないのかもしれません。

震災後文学論(2)―川端康成

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震災後文学としての「浅草紅団」

 1920年代末の浅草を舞台に,都市の周縁を生きる不良グループの少女弓子を追いかけながら,最先端の時代風俗を活写した『浅草紅団』(先進社 1930年12月)は,川端康成が生み出したの傑作と目されてきました。

 ただし,「浅草紅団」に活写されている風俗描写には,「モダニズム」という言葉でくくることがためらわれるような風変わりなものが目立ちます。

 たとえば,当時のモダニズム建築で多用された新しい資材である鉄筋コンクリートで造られたものとして登場するのは,次のような建造物です。

 吉原近くの小さい公園――といふ程のものでなく、貧しい町の子供の遊び場だ。子供が二三人で、そこの共同便所を掃除してゐた。こんな綺麗な共同便所を、私は見たことがない。
「君達、こんなところを掃除するの?」
子供はけげんさうに私を見る。
「毎日?」
「ええ、時々。」
「どうしてね? 言いつかるか、頼まれるかしたの?」
「いいえ。」と、子供達は目顔で呼び合つて、こそこそと立ち去つてしまつた。そこで、公園の子守娘に聞いてみると、
「好きなんでせう、あれが。――自分の家よりもずつとモダンだし、あんな立派な家が使へるの、便所しかないから、いい気になつて、掃除してるんでせう。」

 「コンクリイトの便所」が描かれているのは,たんに当時の最先端風俗としてのモダニズムを象徴する光景として選ばれたからではありません。

 この場面の後で「浅草新八景」の有力候補として「私」が列挙するのは,「コンクリイトの言問橋や隅田公園」「鉄筋コンクリイトのビルヂング,地下鉄食堂」,そして「コンクリイト建てに,鉄棒の牢格子のやうな扉の寺――広小路の突き当りに今普請中の専勝寺」などです。

 このような鉄筋コンクリートで造られた建造物へのこだわりには,震災後という時間がくっきりと刻印されています。

 しかもそれは,震災からの復興を象徴する肯定的なものであるというよりもむしろ,震災後になお人びとの心に残るトラウマを逆照射する光源としての意味を持つものです。

 つまり,子供達がコンクリートを偏愛し,便所掃除に熱心に取り組むのは,数年前に起きた関東大震災を体験しているからであるにちがいないのです。


 便所掃除をしている子どもたちは,おそらく自分が住んでいた木造家屋を地震で失っているはずです。

 自分を守ってくれていた両親や,共に生きてきた兄弟などの家族を亡くしている可能性もあります。

 地震によって倒壊したり,その後の火事によって焼失したりした木造家屋のもろさと,自分を守ってくれる存在のはかなさを知っている子どもたちだからこそ,揺れにも火にも強い鉄筋コンクリート製の建造物に惹かれているのではないでしょうか。

 それが仮に便所であっても,自分たちが出入り可能な居場所であり,確固たる存在感を持つものである限り,「コンクリイトの便所」は尊いのです。

 便所掃除のエピソードは,子どもたちの心が大震災によって深く傷ついていることを暗示しています。

 「コンクリイトの便所」を偏愛する子どもたちは,「被災者」なのです。

 同じように,「浅草紅団」にしばしば登場する「浮浪人」も,もともと定まった住居や職業を持たなかったわけではなく,震災によって家族を失い,コミュニティーを破壊され,社会関係資本を喪失して行き場をなくした「被災者」です。

 たとえば,冒頭部近くにさりげなく書き込まれた「浮浪人」の姿にも,震災がくっきりと影を落としている。

 瓢箪池の岸に人だかりがして,笑つてゐる。小春日和の日ざしが,それらの後姿を温めてゐる。だが,のぞいて驚いた。そこはちやうど瓢箪の結びにあたつてゐて,池の中に小さい島があり,両岸から藤棚のあるある橋がかかつてゐる。その島の立花屋というおでん屋の前,枝垂柳の下の八つ手の傍に,大きい男が突つ立つて,池の麩を拾つて食つてゐるのだ。くるぶしの上まで水に入れながら,七尺ばかりの竹で水の上の麩を掻き寄せては,仁王立ちのまま,むしやむししゃ食つてゐるのだ。
「ひでえ気違ひだな。鯉の上前をはねてやがる。」と,こちら岸ではまた大笑ひだ。十四五切れの麩をむさぼりつくすと,彼は素知らん顔で,おまけにまことに威風堂々と立ち去つてしまつた。

 あまりにも常軌を逸したふるまいですが,飢えに耐えかねてということだけではなく,震災後という時空の中に身を置いて受けとめてみれば,そこにはさまざまな了解の糸口が見えてきます。

 地震で崩壊した凌雲閣を友人と二人で見物した「私」が,「上野の山の人々の噂」として,「浅草の十二階の塔」に登っていた見物客の多くが地震の揺れで振り飛ばされ,瓢箪池に「うぼうぼ浮いてる」という話を伝えています。

 十二階から転落した犠牲者であるかどうかはともかく,火災を逃れて池や川で絶命したという悲劇は,吉村昭『関東大震災』(文藝春秋 1973年8月)に描かれている吉原の弁天池での惨事をはじめ,数多く報告されています。

 池や川に浮かぶおびただしい溺死者たちの姿は,焼死して炭化したり白骨化した被害者たちの姿とともに,関東大震災の惨状を目の当たりにした人々にとっては忘れがたい映像だったに違いありません。

 そのような光景の記憶が影を落としているはずの瓢箪池で,鯉に与えられた麩を食べる男の姿は,被災地東京の読者にとっては,尋常ではない衝迫力を持つものだったのではないでしょうか。

 たとえば,震災直後に「池に遊べる鶴と家鴨とを食はしめし境遇の惨」を嘆き,「人肉を食はずんば生き難しとせよ」と叫んだ芥川龍之介が自殺せずに「浅草紅団」を読んだとしたら,「麩を食う男」「腑を食う男」を感受したかもしれません。

震災後文学論(3)―梶井基次郎

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桜の木の下には屍体が…

 ソメイヨシノが生まれたのは,江戸末期のことだと言われています。

 種子で増えることがなく,接ぎ木でしか繁殖しないソメイヨシノは,すべて人工的に植樹されたものです。

 公園や学校,街路や河川敷など,都市空間を整備する事業を行った時にほぼ同じ樹齢の若木が植樹され,同じように育ち,同じように朽ち果てていくのです。

 一説には,樹齢はおよそ70年と言われ,100年を超える老木はほとんど存在しないそうです。

 また,接ぎ木でしか繁殖しないクローン種であるために,気温や日照などが同じ環境であれば同時に花を咲かせます。

 東京学芸大学や国際基督教大学など,軍事施設があった場所をキャンパスに転用した大学に植えられたソメイヨシノは,戦後70年を来年に控え,そろそろ天寿を全うする計算にななります。

 関東大震災における死者・行方不明者は,10万人を超えると言われています。

 本所の陸軍被服廠跡だけでも3万8千人もの犠牲者が出ているという。おそらく大半の遺体は,葬儀らしい葬儀が執り行われることもなく埋葬されたはずです。

 もちろんねんごろに弔われた遺体もあったでしょうけれど,全ての遺体を火葬して墓地に納骨することは困難だったはずで,穴を掘って「仮埋葬」された身元不明の犠牲者も多かったに違いありません。

 どのような場所に「仮埋葬」されたのか,詳しいことはよくわかりませんが,避難場所としても使われたような広い遊休地や公園などの一角などが選ばれた可能性が高いです。

 防災目的を兼ねて整備された震災復興公園や復興小学校の敷地も,震災時には遺体が運び込むために使われた土地だったのかもしれません。

 そのような想定の下に梶井基次郎「桜の樹の下には」(『詩と詩論』1928年12月)を読むと,桜の美の中に惨劇を幻視した散文詩であるというような狠蠑歸な甓鮗瓩任郎僂泙覆い發里感じられます。

 これはじつは,事実をありのままに語っただけの単なる犹曲賢瓩鵬瓩ないのではないかと思えてくるのです。

 桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!
 これは信じていいことなんだよ。何故つて、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことぢやないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だつた。しかしいま、やつとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる。これは信じていいことだ。

 震災の年に京都にいた梶井基次郎は,震災翌年の1924(大正13)年に東京に転居しています。

 そんな梶井基次郎が関東大震災の5年後に発表した「桜の樹の下には」ではありますが,東日本大震災から3年あまりを経た時点に立つ私には,この犹曲源蹲瓩震災後文学に見えています。

 岩手からも宮城からも福島からも離れた場所で生きて来た私の実感からすると,震災当日に被災地から遠く離れた京都にいたとしても,時間的に5年の隔たりがあったとしても,震災が梶井基次郎の精神に影を落とすということは,十分にあり得ることだと思えるのです。

 もちろん,メディアを通して伝えうる情報の質は,当時と今とではまったく異なります。

 しかし一方で,被災地の外に留まり続けている私とは異なり,梶井基次郎が被災地である東京に移住していることは見逃せません。

 あちこちに震災の傷跡を残しながらも,復興への歩みを始めていたはずの東京で,いったい何を見て,どのような話を聞いたのでしょうか。

 噂話のたぐいを含め,関東大震災の生々しい記憶が,梶井基次郎の精神に何らかの影を落としていたのではないでしょうか。

 だとすれば,震災後に順次整備されていった震災復興公園などに新たに植えられたソメイヨシノから受け取ったヴィジョンが,「桜の樹の下には」という特異な表現に結実した可能性を指摘することができます。

 そして,「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!」などと書けたのは,梶井基次郎が震災の当事者ではなく,被災地外から来た余所者だったからなのではないかということも,付言しておく必要があるでしょう。



先生はじつはお見合いをしていた?―夏目漱石「こころ」再読

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100年目の「こころ」再読

 石原千秋さん責任編集の『夏目漱石「こころ」をどう読むか』(河出書房新社)を読みました。

 『朝日新聞』が今年の4月20日から100年ぶりに再連載している「こころ」は,教科書の定番教材としても読み継がれていて,多くの日本人が一度は目を通したこと“古典”です。

 その「こころ」を論じている対談やエッセイや論文などを読んでいると,おのずと「こころ」の本文が想起され,心の中で再読し味読しているような気分になりました。

 何度読んでも面白く,再読するたびに発見のある「こころ」は,“古典”と呼ぶにふさわしい小説です。

 およそ30年前,発表されて間もない頃に読んだときには,まるで一卵性双生児のようによく似ていると感じた石原千秋さんの「眼差しとしての他者―『こころ』」と小森陽一さんの「『こころ』を生成する心臓(ハート)」が,それぞれ異なる相貌を持った論文として読めたことも,再読の面白さを感じさせてくれる出来事でした。

 そして,読みながら,夏目漱石の「こころ」をめぐるさまざまな気づきに導かれました。

先生とお嬢さんのお見合い

 たとえば,こんな気づきがありました。

 石原千秋さんは「奥さんやお嬢さんと連れ立って買い物に行くという構図」「まさに一家団欒そのもの」だと指摘した上で,反物の入った戸棚の前で座っているお嬢さんを視野に入れつつ,奥さんが急に改まった調子で「どう思うか」と聞く場面を引用した上で次のように指摘しています。

 この時、先生と奥さんはお嬢さんの結婚問題について話していたのだが(まさに「主人」ではないか)、その話を聞きながら、お嬢さんは先生の買ってくれた反物をわざわざ戸棚から「引き出して」手にしている。しかも、「私の着物もお嬢さんのも同じ戸棚の隅に重ねてあった」。これが、お嬢さんの「此問題」についての答えでなくて、また、重ねられた二人の着物が二人の運命の暗喩でなくてなんだろうか。

 これはこれで面白い話で,30年近く前に読んだときも,その分析の鮮やかさに感じ入ったことを記憶しています。

 ただ今回はそれだけでは終わらず,「奥さんやお嬢さんと連れ立って買い物に行く構図」(下十七)には,もう少し別の文脈が掘り起こせるのではないかと気づいたのです。

 明言されていないので,もしかすると先生自身も十分に自覚できていないのかもしれません。

 でも,書き留められている出来事の背後には,潜在的な解釈の可能性を指摘することができます。

 それは,「奥さんとお嬢さんと連れ立って買い物に行く構図」とは,“お見合い”に他ならなかったのではないかということです。

 どこで刷り込まれたものなのかわかりませんが,いわゆる“お見合い”というと,私は立派なお座敷で両家の両親と仲人が同席して行われるきわめてフォーマルなものを思い浮かべてしまいます。

 しかしこうした通念は,明治時代や大正時代には通用しないところがあります。

 青空文庫「見合い」を検索語にしてリストアップした小説を読みあさっていくと,ひとくちに“お見合い”と言っても,さまざまな形態があったことがわかります。

 たとえば,働いているところを見に行ったり相手の家を訪問したりという“お見合い”が描かれています。

 駅で待ち合わせて一緒に地下鉄に乗るというお見合いもありますし,近所の通りで何度かすれ違うだけでもお見合いとしての役割を果たす場合があったようです。(「青空文庫のなかの見合い」参照)

 明治から大正・昭和に至る時代のそういう“お見合い”のありようを考えると,若い男女が家長の監視下で行動をともにする次のような状況は,それはそれでもう十分立派な“お見合い”ではなかったかと思えてくるのです。

 奥さんは自分一人で行くとはいいません。私にもいっしょに来いと命令するのです。お嬢さんも行かなくてはいけないというのです。今と違った空気の中に育てられた私どもは、学生の身分として、あまり若い女などといっしょに歩きまわる習慣をもっていなかったものです。(中略)お嬢さんは大層着飾っていました。地体が色の白いくせに、おしろいを豊富に塗ったものだからなお目立ちます。往来の人がじろじろ見てゆくのです。そうしてお嬢さんを見たものはきっとその視線をひるがえして、私の顔を見るのだから、変なものでした。

 これだけでも,青空文庫的には立派な(?)“お見合い”であったと思えてきますが,さらにこんな記述も続いています。

 三人は日本橋へ行って買いたいものを買いました。買う間にも色々気が変るので、思ったより暇がかかりました。奥さんはわざわざ私の名を呼んでどうだろうと相談をするのです。時々反物をお嬢さんの肩から胸へたてに宛てておいて、私に二、三歩遠退いて見てくれろというのです。私はそのたびごとに、それは駄目だとか、それはよく似合うとか、とにかく一人前の口を聞きました。

 このあと3人は「木原店という寄席のある狭い横丁」にある飲食店で食事をして帰ります。

 こんな店をどうして知っているのかというところに先生は驚きを感じていて,奥さんはどうやら食事場所もはじめから決めていた様子です。

 青空文庫で見合いを描いた小説を読んだ私にとっては,“お見合い”フレーバーがぷんぷんして来る感じです。

 考えてみれば,先生の両親とお嬢さんの父親はすでに他界していますから,お見合いに必要な当事者はすべて揃っているわけです。

 そして面白いのは,語り口から考える限り,先生はこの日の出来事をお見合いだとは考えていないと思われることです。

 その一方で,先生の叙述から読み取れる具体的な状況の数々は,奥さんやお嬢さんはこの日の出来事をお見合いであると考えていた可能性を示唆しています。

 そういう読みの可能性を想定した上で,買い物から数日後にお嬢さんが戸棚の中から反物を引き出して膝の上に置くという場面を読み直すと,奥さんの意識は当時の先生の意識はもちろんのこと,遺書を書く先生の意識ともずれた場所にあって,数日前の“お見合い”の成否に注がれているのではないかと思えてきます。

 お見合いをしたのだから,先生の気持ちを聞き出したいと思っている奥さんとお嬢さん。

 お見合いをしたという自覚がないままに,お嬢さんとの結婚を夢想し,それを言い出せずにいる自分を前に逡巡する先生。

 鈍感な先生は自分が奥さんとお嬢さんからどのように眼差されているのかを理解することができないまま,あくまでもお嬢さんの結婚問題が一般論として,また先生自身とは無関係のこととして話題にされていると勘違いをして「なるべくゆっくらな方がいいだろう」と答えてしまうのです。

 もちろんそれを奥さんは,お見合いに対する先生の返答だと受け止めます。

 「ゆっくらな方がいいだろう」というのは,明確なYESではありませんが,同時にNOでもありません。


 勘違いしたまま口にしたこの言葉は,勘違いを露呈させることなく奥さんに受け止められます。

 この台詞はじつに絶妙です。

 三人で買い物に行ったときの先生の意識と,それを遺書の中で想起するときの先生の意識。

 先生の意識のありようとは別の問題として,遺書の記述から浮かび上がってくる買い物に行ったときの状況。

 そこから推測しうる奥さんやお嬢さんの意識。

 青年が読んでいる(あるいは公開している)先生の遺書からは,さまざまな位相の物語が紡ぎ出されます。

 そしてそれらの物語は,矛盾をはらんだまま共存し,展開していきます。。

 夏目漱石の「こころ」を“古典”と呼びうるのは,このような文脈の重層性が小説のすみずみにまでビルトインされているからなのではないでしょうか。

ことばの力とサッカー日本代表の次期監督

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ワールドカップはこれから

 コロンビア戦の前に「なんでテレビはこんなにワールドカップ一色なんだ。いい加減にしてほしい」とぼやいている人がいました。

 V9時代のジャイアンツをよく知るプロ野球世代の方でした。

 たしかにワイドショーもスポーツニュースもワールドカップばかりでした。

 でもV9時代のジャイアンツを知り,読売新聞の勧誘員からプロ野球の入場券の代わりに日本リーグの読売対日産の入場券をもらったことのある世代の人間なら知っています。

 「ワールドカップ開催中なのに,なんでスポーツニュースはプロ野球ばかりなんだ。いい加減にしてほしい」とぼやいていた時代があったことを…。

 そういう時代を知っている人間にとっては,日本代表が敗れ去って,サッカーのニュースが激減したここからが,いかにもワールドカップらしいワールドカップです。

 日本が仲間に入れてもらえず,世界的なスポーツの祭典であるにもかかわらずマスメディアがちっとも伝えてくれない,よそよそしくて敷居が高い,見えているのに遙か彼方にあってまるで満月のように輝く,手の届かない場所で繰り広げられているからこそ魅惑的でエキサイティングなワールドカップなのです。

日本サッカーと言語技術教育

 10年ほど前につくば言語技術教育研究所の三森ゆりかさんの講演を拝聴する機会がありました。

 日本サッカー協会のコーチングスタッフや選手に言語技術講習をはじめたばかりの頃でした。

 サッカーの技術向上や戦術理解のためには言語技術の向上が不可欠であることを認識し,そのための具体的な手立てとしてJFAアカデミーの「コミュニケーションスキル講座/言語技術」を立ち上げたのは,長年にわたり協会の教科担当ポストを歴任した現・日本サッカー協会副会長の田嶋幸三さんです。

 旧西ドイツのケルン体育大学へ留学してコーチライセンスを取得し,筑波大学助教授や大学サッカー部コーチをつとめ,さらにはU-15やU-19日本代表の監督をつとめた理論家らしい目の付け所で,言語技術教育を日本サッカーのレベルアップに活用しようという発想に感服したのを覚えています。

 「香川真司も実践している?世界で輝くためのコミュニケーション・スキル」という記事の中で,三森ゆりかさんはこう言っています。

 「サッカーは論理のスポーツです」
 
 自身も中学・高校をドイツで過ごした三森先生は言います。
 
「私がドイツにいた時期はまさに西ドイツの全盛期。私が見たサッカーは、選手がみな論理で動いていました。実況や解説でも「論理的」という言葉が頻繁に出てくる」
 
 サッカーに限らずドイツをはじめとするヨーロッパ各国では、言語技術に基づく論理的思考を子どもの頃から叩きこまれ、自分の意見を自分の言葉で論理的に説明できるように教育されているそうです。
 
「考えてみればサッカー強国と呼ばれるドイツ、フランス、スペイン、オランダはみんなこういう教育を行なっている。帰国して強く感じたのは日本ではこういう教育が行われていないということです」
 

 10年ほど前に私が聞いた講演でも,日本の言語技術教育がいかに立ち後れているかという話をしていました。
 
 東京12チャンネルで放映されていた三菱ダイヤモンドサッカーで,金子勝彦さんの名調子と岡野俊一郎さんのロジカルな解説を聞きながらレベルの高いサッカー先進国のゲームを見て育った私にとっては,「なるほど~」と感じ入る話でした。

サッカーと通訳

 そんな日本サッカー協会が,ザッケローニ監督の後任に,またしても外国人監督を起用しようとしていることが私にはどうにも腑に落ちません。

 ザッケローニ監督は,ワールドカップの敗戦に際して「何かを変えることができるのであれば選手のメンタルの部分だ。技術や戦術ではなく、選手のメンタル面にもっと取り組んでおけばよかったと思う」という意味のことを語ったそうです。

 メンタルを動かすにはことばです。

 「最後は金目でしょ」とか「早く結婚した方がいいんじゃないか」などのような短いことばが,時にはメンタルどころか,多くの人の感情を揺さぶり,社会を揺るがします。

 かつてWBCでイチローの心が奮い立ったのは,侍ジャパンの原辰徳監督「おれはイチローが見たいんだ」ということばを使ったからこそです。

 「君のいつものプレーが見たい」とか「あなたらしいプレーをしてほしい」ということばでは,イチローのメンタルは動かなかったでしょう。

 ザッケローニ監督が何を語りかけようとも,通訳のことばが力を持っていなければ選手のメンタルは動きません。

 英語ならまだしも,フランス語やイタリア語を理解できる代表選手はほとんどいないでしょうから,監督が選手のメンタルに働きかける上で通訳の果たす役割は重要です。

 「君のいつものプレーが見たい」「おれはイチローが見たいんだ」という表現の差異に自覚的で,それをその場に応じて自在に駆使できるような有能な通訳がいない限り,あるいはそういう役割を果たせる日本人コーチがサポートできない限り,外国人監督の良さを生かすことはできないのではないかという危惧を持ちます。

 ヨーロッパからやってきた監督のことばを,ヨーロッパ由来の言語技術を学んだ通訳が翻訳して伝えるというやり方で,日本人選手のメンタルをどこまで動かせるのかというあたりが心配です。


 日本サッカー協会が日本人の中から監督を選ぶのは難しいのでしょうか。

 でも,日本人が代表監督の経験を積み重ねていかなくては,日本サッカーはいつまで経っても世界に追いつけないのではないでしょうか。

 ドイツもアルゼンチンもオランダもブラジルも,代表監督は自国籍の人間です。

 W杯出場国の大半が自国籍の人間を代表監督に選んでいます。

 チリ,コロンビア,コスタリカ,ホンジュラス,コートジボワールなどは外国人監督ですが,実は旧宗主国のことばが共通の公用語です。

 通訳なしでコミュニケーションできます。

 歴代のW杯優勝国の監督はみな自国籍の人間です。

 ザッケローニ監督の年俸は2億円を超えるらしいですが,日本人ならそんなにお金をもらわなくても,命がけで監督業に取り組むのではないかと思うのですが…。


付記

 田中将大投手から決勝ホームランを打ったレッドソックスのナポリ選手の失言が,アメリカで物議を醸しています。

 ダッグアウトで出迎えられる際に「What an idiot!!(なんてまぬけな)」と口走ったというのです。

 Yahoo!ニュースによると,「あいつは俺に直球を投げてきたよ」と続け,その音声はFOX局の全米中継で拾われて何度もリプレーが放映されたそうです。(マー君にV弾選手 まぬけ発言


 「なんてまぬけな…あいつは俺に直球を投げてきたよ」という日本語訳を読む限り,まあそんなに目くじらを立てなくてもいいんじゃないかと思えます。

 ただ,実際の音声を聞くと,Fで始まる別の単語も使われていて,どうもかなり下品で挑発的な表現になっているようです。

 やはり,英語で言われると腹が立つ表現であっても,日本語に“翻訳”されてしまうと,あまり腹が立たない(心が動かない)ということはあるんだなと思った次第です。
 

サバイバーズ・ギルト覚書―震災記(20)

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サバイバーズ・ギルトはいつ生まれたか?

 昨年放映された大河ドラマ「八重の桜」のヒロイン山本(新島)八重は,酸鼻をきわめた会津戦争生き残りでした。

 今年放映されている大河ドラマ「軍師官兵衛」の第1回は「生き残りの掟」というタイトルで放映されました。

 新美南吉の「ごんぎつね」や夏目漱石の「こころ」など、国語科教科書に収録されている定番教材の多くが生き残りの罪障感(サバイバーズ・ギルト)をモチーフとしているのですが,テレビドラマや映画にも同じモチーフが繰り返し登場します。

 中央大学の宇佐美毅さんも「『ノルウェイの森』と『家政婦のミタ』の共通点」としてサバイバーズ・ギルトという問題を取り上げています。

 そしてこれらはどうやら敗戦後に特有の現象であり,日航機墜落事故阪神淡路大震災JR福知山線脱線事故東日本大震災など,大規模な事故や災害が起こるたびに改めて注目され,芸術家たちの創作衝動に影響を及ぼしてきたと言えます。

 しかしそれならば,応仁の乱とか関ヶ原の戦いとか,天明の大飢饉とか戊辰戦争とか,日清戦争日露戦争とか関東大震災とか,多くの人命が一度に失われる大事件が起こるたびに同じようなモチーフに支えられた文化が生み出され,享受されてもよいのではないかと思われます。

 たとえばこのブログが始まった頃,あるいはその少し後に私が「定番教材の誕生」という連載を書いた頃,ウィキペディアには「サバイバーズ・ギルト」という項目はありませんでした。

 そういう問題が日本で明確に意識されるようになったのは,ごく最近のこと,せいぜいここ20年ほどのことに過ぎません。

 いやもしかすると,1914年7月28日に始まった第一次世界大戦において,戦闘ストレス反応(シェルショック)という症例が問題視された頃にその淵源をさかのぼることができるかもしれません。

 しかしそうだとしてもたかだか100年前のことにすぎませんし,サバイバーズ・ギルトという形で問題が明確に意識されていたわけでもありません。

 中世や近世,あるいはそれよりも前の時代にサバイバーズ・ギルトが人びとを苦しめるということはなかったのでしょうか。

 戊辰戦争や西南戦争,三陸大津波や関東大震災を体験した人びとがサバイバーズ・ギルトによって精神的に不安定な状態に陥るということはなかったのでしょうか。

サバイバーズ・ギルトを生み出す条件

 中世や近世,あるいはもっと昔のことになるとまるで想像できないのですが,少なくとも明治時代や大正時代においては,サバイバーズ・ギルトが芸術や文化の領域で主要なモチーフとなることはなかったように思われます。

 そういう傾向はやはり,20世紀後半から今世紀初頭にかけて顕著になっていると言えます。

 それはいったいどうしてなのでしょうか。

 ひとつには戦没者の数の違いが影響しているかもしれません。

 帝国書院の戦争別死傷者数という資料を見ると,軍人・軍属の死没者数は,日清戦争が1万3,825人で日露戦争が8万5,082人であるのに対して,日中戦争は(1937~41年)18万5,647人,日中・太平洋戦争(1942~45年)では155万5,308人にものぼります。

 日中・太平洋戦争の場合,軍人・軍属の死没者に加え,民間人の死没者39万3,485人が加わります。

 これらの死者の周辺には,戦友を見殺しにせざるを得なかった体験を抱えた復員兵や,空襲の混乱の中で肉親や知人を見捨てて生き延びるしかなかった人たちなど,サバイバーズ・ギルトに苦しむことになってもおかしくない人びとが大勢いたはずです。

 メディアが発達したことによって情報が共有され,自らが死者たちの運命に関与しているという当事者意識を持ちやすくなったということも,罪障感を生み出す要因のひとつになっているかもしれません。

 一方,中世や近世の人びとは,死や死体が日常世界から遠ざけられている現代社会に比べ,昔の人びとは死や死体に慣れてしまっているぶん,いちいち罪障感など感じていらなかったということなのかもしれません。

 すれ違う人と挨拶を交わすのが当たり前である地方の小さな村落とは異なり,都会の人びとが雑踏を歩いているときにいちいちすれ違う人に反応しないように,あまりにも死が身近にあり,日常的に死体(しかも腐乱した死体)を目にすることが当たり前の時代であれば,生き残りの罪障感など感じている余裕はないということなのかもしれません。

被災地の臨床医が教えてくれたこと

 そんなことを考えている私にとって,少しばかり意表をつかれるような文章を読みました。

 福島県の相馬中央病院で内科医をなさっている越智小枝さんの「被災地が教えてくれた現代社会の“風土病”」いうコラムです。

 震災後3回目の春を迎えた今年の4月に書かれたものですが,人工物のなくなった浜の大地と自然は以前より栄えているかのようにすら見えると越智さんは書いています。震災によって見えてきたのは,自然と人間の解離だと言うのです。

 福島県には滝桜で有名な「三春町(みはるまち)」という土地があります。この土地の名前の由来は、春の象徴である三種の花、梅、桃、桜が同時に咲くことから名づけられたそうです。
 三春町に限らず、福島県の春は唐突に、かつ一度に訪れます。桜と梅が一斉に咲くだけでなく山吹とレンギョウの黄色もきれいに混じります。足元にはツクシと水仙と菜の花が咲き、ウグイスがさえずる中ツバメが飛び交い足元ではカエルが鳴いているのですから、こちらの俳人は季語をどうしているのだろう、と要らぬ心配までしてしまいます。
 そのような春爛漫の中、インペリアルカレッジ・ロンドンの医学部6年生、アリスさんが被災地見学にいらっしゃいました。晴天に恵まれた海沿いの通りを立ち入り禁止区域まで南下するドライブをしながら、いろいろなお話をさせていただきました。
 途中、真っ青な海と花盛りの山を見ながら、彼女がつぶやいた言葉が印象的でした。
「こういう景色を見ていると、人間以外の生き物はすべてが幸せそうに見えますね。人間がいかに社会的な生き物か、ということに気づきます」

 「こういう景色を見ていると、人間以外の生き物はすべてが幸せそうに見えますね。人間がいかに社会的な生き物か、ということに気づきます」というアリスさんの話は確かに印象的です。

 
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 春や夏,生命が盛んに活動している時節に被災地を訪れた方なら,アリスさん言葉は実感をともなって受け止めることができるに違いありません。(写真は福島県浪江町請戸地区。地平線中央やや左の建造物は福島第一原発)

 私も宮城や福島の被災地を緑豊かな季節に訪れていますから,越智さんが紹介するアリスさんの言葉を読んで「なるほどなぁ」と思いました。

 ここまでは私にもすんなりと飲み込める話でした。

 しかしこのあと越智さんは,自然と人間が解離しているように,人間と人間も解離しているという話を始めます。

 越智さんによると,人間の中にも「失う人と“失わない”人」がいるというのです。

 この話は,私にとって意表を突かれるものであると同時に,サバイバーズ・ギルトについて考えていたことに対する重要な示唆を与えてくれるものでもありました。

 そこに何が書いてあり,そこから私がどのような示唆を受けたのか…ということについては,また改めて…。

 気になる方は,越智小枝さんのコラムをぜひ読んでみてください。




photograph by NJ

死者のためのえびフライ―三浦哲郎の「盆土産」を読む

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 日本文学協会の国語教育部会夏期研究集会に出席するために,中学校の国語教科書に収録されている三浦哲郎「盆土産」を読み直しました。

 ちょうどお盆休みの真っただ中でもありますし,つらつらとレビューを書き留めてみます。



 ネタバレを気にしなくてはいけないようなオチはないと思いますが,いちおうネタバレ注意!です。

 

冷凍食品 えびフライ

 「盆土産」は,1987年度版の光村図書出版『国語2』に収録されて以来,30年近くにわたって教科書に収録され続けている短編小説です。

 中学の国語教科書において光村図書は長年にわたり最大のシェアを誇っていますから,30代以下の方の多くは「盆土産」を読んだことがあるはずです。

 主人公は小学3年生の少年です。

 盆の入りが間近に迫った8月11日,町の郵便局から赤いスクーターがやってきて,東京に出稼ぎに行っている父親からの速達が届きます。

 封筒の中には伝票のような紙切れが一枚入っていて,そこには「盆には帰る。十一日の夜行に乗るすけ。土産は、えびフライ。油とソースを買っておけ。」と記されています。

 東京の上野駅から十時間近くかかる山間地に住んでいる少年にとって,「えびフライというのは、まだ見たことも食ったこともない」ものであり,謎に満ちた土産品です。

 沼にいる小エビなら知っていますが,それがフライになるというのがわかりません。

 姉に聞いても「どったらもんって……えびのフライだえな。」などと言うだけで,要領を得ません。 

 天ぷらのかき揚げのようなものや小エビをすりつぶしたコロッケのようなものを想像しますが,祖母に尋ねてみてもはぐらかされるばかりです。

 祖母は、そうだともそうではないとも言わずにただ、
「……うめもんせ。」
とだけ言った。

 どうやら姉も祖母も「えびフライ」というものを知らない様子なのです。

 父親はそんなえびフライを紙袋に入れ,「空気に触れると白い煙になって跡形もなくなる氷」(=ドライアイス)で懸命に冷やしながら東京から持って来ます。

 そんなにまでして紙袋の中を冷やし続けなければならなかったわけは、袋の底から平べったい箱を取り出してみて、初めてわかった。その箱の蓋には、『冷凍食品 えびフライ』とあり、中にパン粉を付けて油で揚げるばかりにした大きなえびが、六尾並んでいるのが見えていた。

 一般の家庭には電気冷蔵庫がなかった時代,冷凍食品自体が一般にあまり普及していなかった時代の話なのでしょう。

 調べてみると,えびフライが冷凍食品として商品化されたのは,1962年のことです。

 澁川佑子さんの「「てんぷら×魚フライ」で誕生したエビフライ」によると,「1962(昭和37)年、冷凍水産品の製造と販売を行っていた加ト吉水産(現テーブルマーク)は、冷凍食品の『赤エビフライ』を発売。これをきっかけに、エビフライはお弁当のおかずとしても人気を博して」いったそうです。

 真新しい空色のハンチングをかぶり,「冷凍食品 えびフライ」を土産に帰省する父親の様子から考えると,高度経済成長期,日本がオリンピック景気に沸き立ちお盆休みも返上して国立競技場や新幹線や首都高速道路を突貫工事で完成させた1964年の,その次の年あたりではないかという気がします。

 今年もお盆休み返上かと思ったけど,そこまでは忙しくなかったので帰省できた…という感じです。

 ただ,もう少し時代が下ってからの話ではないかと思わせる部分もあります。

 同じように父親が帰っているらしい隣の喜作が,「真新しい、派手な色の横縞のTシャツをぎこちなく着て、腰には何連発かの細長い花火の筒を二本、刀のように差して」いるという描写があります。

 いかにも高度経済成長期っぽいディテールですが,1965年頃だとするとTシャツという単語が一般に流布していないはずですし,ましてや東北の田舎に住んでいる小学生が知っているはずもありません。

 語り手が作中現在の少年の意識をなぞっているのだとすれば,1970年代の物語であることになるわけです。

 ただ,1970年代の半ば以降だとすると,東京に出稼ぎに行っている父親以外の人間がみな「えびフライ」というものを知らないのは不自然です。

 Tシャツという単語は,作中現在の少年の意識をなぞって使われているのではなく,「濃淡の著しいボールペンの文字」とか「祖母は歯がないから、言葉はたいがい不明瞭」などと同じように,語り手の意識を反映して使われている言葉なのでしょう。(…と考えるしかなさそうです。)

 ちなみに,もしも1965年の物語だとすれば,小学校3年生の主人公は1956年生まれで,父親はおそらく1935年ごろの生まれです。

「えんびフライ……。」とつぶやいた理由

 6尾のえびフライを4人で食べた翌日の8月13日,午後から死んだ母親が好きだったコスモスとききょうの花を摘みながら共同墓地へ墓参りに出かけます。

 祖母は、墓地へ登る坂道の途中から絶え間なく念仏を唱えていたが、祖母の南無阿弥陀仏は、いつも『なまん、だあうち』というふうに聞こえる。ところが、墓の前にしゃがんで迎え火に松の根をくべ足しているとき、祖母の『なまん、だあうち』の合間に、ふと、「えんびフライ……。」
という言葉が混じるのを聞いた。

 えびフライのしっぽをのどに引っかからせて咳き込んでしまい,「歯がねえのに、しっぽは無理だえなあ、婆っちゃ。えびは、しっぽを残すのせ。」と父親から諭される祖母の人柄が伝わってくる場面です。

 少年はこう思います。

 祖母は昨夜の食卓の様子を(えびのしっぽが喉につかえたことは抜きにして)祖父と母親に報告しているのだろうかと思った。そういえば、祖父や母親は生きているうちに、えびのフライなど食ったことがあったろうか。祖父のことは知らないが、まだ田畑を作っているころに早死にをした母親は、あんなにうまいものは一度も食わずに死んだのではなかろうか――そんなことを考えているうちに、なんとなく墓を上目でしか見られなくなった。

 少年の家族は,祖母と姉と出稼ぎをしている父親で4人です。

 父親が盆土産に買ってきたえびフライは「六尾入り」でした。

 つまり,墓に入っている祖父と母親を合わせた6人家族にぴったりの数なのです。

 昨夜の食事の際,「四人家族に六尾」という「配分がむつかしそう」な状況に対して,「お前(おめ)と姉(あんね)は二匹ずつ食(け)え。おらと婆っちゃは一匹ずつでええ。」と父親は明快に述べたわけですが,少年と姉が食べたえびフライは死者に供えるために用意されたものだったのかもしれないわけです。

 「なんとなく墓を上目でしか見られなくなった」という少年の胸中に去来していたのは,死者を勘定に入れずにえびフライを二つ食べてしまったことに対する後ろめたさなのです。

 (お盆なのに死者のことをうっかり忘れていて,生者だけでワイワイ楽しんでしまうことって,ありがちですよね。)

 したがって,以下の場面の少年の胸中に去来しているものも,もう一度えびフライを買ってきてほしいという食欲やら物欲やらだけではないでしょうし,父親との別離の寂しさということだけでもないはずです。

 父親はとって付けたように、
「こんだ正月に帰るすけ、もっとゆっくり。」
と言った。すると、なぜだか不意にしゃくり上げそうになって、とっさに、
「冬だら、ドライアイスもいらねべな。」
と言った。
 (中略)
 バスが来ると、父親は右手でこちらの頭をわしづかみにして、
「んだら、ちゃんと留守してれな。」
と揺さぶった。それが、いつもより少し手荒くて、それが頭が混乱した。んだら、さいなら、と言うつもりで、うっかり、
「えんびフライ。」
と言ってしまった。

 混乱した少年の頭の中には,「早死にした母親」に対する愛着の気持ちや死者のことを忘れてえびフライを食べてしまったことに対するうしろめたさが底流している気がします。

 また,そもそも父親が盆土産のえびフライを持って帰省してきたのは死者に会うためであったのだということに対する気付きと,そういう気付きの向こう側に父親の喪失感を感受している少年の姿が描かれている気がします。

 ですから「えんびフライ」という発話の後に続く言葉には,「また買ってきて」とか「おいしかったね」とか「ありがとう」などだけではなくて,さまざまな可能性が秘められています。

 (たとえば「母ちゃんにも食べさせたかったね」とか…。)

 ちなみに,少年が1956年頃の生まれ,父親が1935年頃に生まれたと仮定すると,祖父は1915年頃の生まれ。

 戦場で死んだ可能性のある世代であることになります。

 戦死したと仮定すると,人生の半分はいわゆる「十五年戦争」の時代です。

 つまり,えびフライを食べるような高度成長期の豊かさとは縁遠いの時代を生きたことになります。

一人称小説/三人称小説

 「盆土産」は一人称小説に見えます。

 そう読むのが自然です。

 しかしまったく一人称は使われていません。

 冒頭部は以下の通りです。

 えびフライ、とつぶやいてみた。
 足元で河鹿が鳴いている。腰を下ろしている石の陰にでもいるのだろうが、張りのあるいい声が川に漬けたゴム長のふくらはぎを伝って、膝の裏をくすぐってくる。

 ここに一箇所だけ一人称を使ってみます。
 
 えびフライ、とつぶやいてみた。
 足元で河鹿が鳴いている。腰を下ろしている石の陰にでもいるのだろうが、張りのあるいい声が川に漬けたゴム長のふくらはぎを伝って、僕の膝の裏をくすぐってくる。

 これで一人称小説になります。


 同様に,一箇所だけ三人称を使ってみます。

 えびフライ、とつぶやいてみた。
 足元で河鹿が鳴いている。腰を下ろしている石の陰にでもいるのだろうが、張りのあるいい声が川に漬けたゴム長のふくらはぎを伝って、哲郎の膝の裏をくすぐってくる。

 これで三人称小説になります。(かりに「哲郎」としましたが,もちろん「拓哉」でも「潤」でもかまいません^^)

 一人称も三人称も,頻繁に使う必要はありません。

 ときどき思い出したように一人称または三人称のいずれかを一貫して用いることで,どういう視点で書かれている小説であるのかを明確にしながら小説を書くことができます。

 しかし「盆土産」では,一人称小説にも三人称小説にも確定できない,なんとも中途半端な叙述の方法が取られているのです。

 もう詳述する余裕はありませんが,これが「盆土産」という小説の大きな特徴になっています。

夏休みの宿題と小保方問題―感想文と自由研究について

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夏休みの宿題

 地域によってはすでに2学期が始まっていて子どもたちの夏休みは終わりました。

 ところが,夏休みが終わっても容易に終わらないのが夏休みの宿題です。

 そして,夏休みの宿題の定番と言えば,自由研究と読書感想文です。

 おそらくどちらの宿題にも,独創性とか個性とかというものが求められます。

 しかし,小学生はもちろん,中学生や高校生だって,そう簡単に独創的な自由研究や個性的な読書感想文を仕上げられるわけではありません。

 自分独自のアイデアを思いつくことができないまま悶々とした日々を過ごし,時間ばかりが過ぎてゆき,いつの間にか夏休みが終わってしまう…ということが起きてしまいがちなのも無理はありません。

 それにしても,夏休みの宿題としての自由研究や読書感想文には,どんな意味があるのでしょうか。

読書感想文

 さしあたり読書感想文について考えてみます。

 たとえば,ある高校で次のような夏休みの宿題が出されたと仮定します。

●国語→国語便覧に載っている文学者の著作を1冊選んで読み、感想文を書け。
●数学→数学をテーマにした本を1冊選んで読み、感想文を書け。
●英語→英語の短編小説を一つ選んで読み、感想文を書け。
●社会→歴史小説を1冊選んで読み、感想文を書け。
●理科→科学の歴史に関する新書を1冊選んで読み、感想文を書け。
●音楽→クラシックの名曲を1曲選んで聴き、感想文を書け。
 …以下省略。。。

 感想文ぜめです。

 ここまで多くはなくとも,教科ごとに別々の先生が教える中学や高校においては,感想文の宿題が2つも3つも出てしまうというケースは珍しいことではないでしょう。

 こんな風に追い込まれたとき,子どもたちがどうなるか?

 一部の生徒(あるいは多くの生徒)が感想文お助けサイトにアクセスしたり,ネット上に転がっているレビューからのコピペに走ったりすることは必然です。

 独創性とか個性とか,あるいは著作権の意義うんぬんというような話よりも,目の前の宿題をこなすことが子どもたちにとっては死活的に重要だからです。

 感想文の宿題が国語だけだったとしても,英語文法の問題集100ページ+数学の問題集100ページ…のように大量の宿題が出されれば,同じように感想文お助けサイトやコピペに救いを求めるに違いありません。

 しかも感想文の対象を自由に選ぶことができるのであれば,多種多様なものが取り上げられることになりますから,丸写しのコピペをしたとしても,発覚する可能性もきわめて限定的なものになってしまうでしょう。

 宿題を安直に仕上げてやり過ごすという“成功体験”を持った生徒が,大学に行ってから何をするのか…と考えれば,火を見るより明らかです。

 その段階で発覚すればまだよいのでしょうけれど,大学のレポート作成でコピペをした学生がさらに“成功体験”を積み重ねていけばどうなるでしょうか…。

 これはもはや独創性とか個性を育てるための宿題などではなく,要領よく他人のものをサンプリングしたりパクったりして「自分のもの」を作り上げるレッスンでしかありません。

 もちろん,サンプリングしたりパクったりすることのなかにも創造力が必要です。

 また,他人が書いたものに手を加えつつ配列する作業を意図的・自覚的に行えば,それはまさしく“編集”であり,これはこれでクリエイティブな営為であると言えます。

 しかし,感想文を書くという宿題は,編集作業のレッスンとして行われているわけではありません。

 おそらくは「本をたくさん読んで欲しい」ということや「読んだ本について自分なりの感想を持って欲しい」ということなどから出されるものです。

 「自分なりの…」です。

 でも,そんなことができる子どもはそんなに多くはありません。

 もともとは宮川俊彦さんが小学生用に考案した読書感想文を仕上げるための極意「なたもだの術」が,いまや小論文作成の裏技として流布してしまっている現状も,子どもたちがいかに感想文という宿題にいかに適応してきたかということの反映なのかもしれません。

自由研究

 というわけで,自由研究の話です。

 これまた,独創性や個性が求められますが,そう簡単にはいきません。

 市販されている対策本やネットに転がっている情報から,自分にやれそうなものを選び,パパやママに手伝ってもらって仕上げる…というのが,小学生の基本パターンでしょう。

 中学生になると,さすがにパパやママに手伝ってもらうケースは減るでしょうが,市販されている対策本やネットに転がっている情報から選択するというやり方は変わりません。

 「自由研究」というのは,「自由な発想で独創的な調査や分析を行う研究」ではなくて,「すでに誰かがやった調査や分析を自由に真似して行う研究」になってしまっているのかもしれません。


小保方問題

 もちろん読書感想文でも自由研究でも,子どもたちが本来的な意味において独創的かつ個性的なものを仕上げることはあります。

 ただしそういうことができるのは,一部の限られた子どもたちだけです。

 大半の子どもたちにとって夏休みの宿題は,他人のふんどしを借りて安直かつ要領よく仕上げるものになってしまっています。

 こういう土壌が,広い意味での小保方問題を生み出してしまったのではないか…というのが,この記事を通して書きたかったことです。

 小保方晴子さんおよびSTAP細胞に対する世の中の評価は,180度転換しました。

 さらに180度転換して元に戻ってしまう可能性も皆無ではありません。

 ただ,画像の流用などについてはご本人もミスを認めているようですし,論文作成のプロセスに問題があったことは確かなようですから,ここではそういう研究者のふるまい自体を“広い意味での小保方問題”と呼びたいと思います。

 …というわけで,ふと思い立って書き始めた駄文を結びます。

 “広い意味での小保方問題”を生み出したのは,夏休みの宿題のあり方に象徴される日本の文化的土壌なのではないでしょうか。

定番教材「走れメロス」―佐郷屋留雄と転向文学

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教材「走れメロス」の誕生

 今年の2月に「走れメロス」は走っていなかった!? 中学生が「メロスの全力を検証」した結果が見事に徒歩という話題で注目された太宰治の「走れメロス」

 中学国語の定番教材です。

 その「走れメロス」についての研究発表を聴く機会に恵まれました。

 奥山文幸さん「教材『走れメロス』の誕生」(日本文学協会近代部会/2014.8.18)です。

 奥山さんによると,「走れメロス」をいちばん最初に教科書に採録したのは,1956(昭和31)年に秀英出版が発行した『近代の小説』だそうです。

 現在は中学2年生用の教科書に掲載されている「走れメロス」ですが,意外なことに最初に採録されたのは高校生用の教科書でした。

 しかも「黙れ、下賤の者。」「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。」など,教育上好ましくないとして現在カットされていたり、かつてカットされていたりした言葉がそのまま削除されずに載っていました。(「下賤」や「まっぱだか」がNG!)

 それにしてもなにゆえにスキャンダラスな情死事件で生涯を終えた,スキャンダラスな作家である太宰治の小説が,昭和30年代の国語科教科書に載ったのでしょうか。

 また,なにゆえにそれは「走れメロス」だったのでしょうか。

 奥山さんの発表は,『近代の小説』という教科書を編集した日本文学協会のメンバーが,文学や教育にどのように向き合っていたのかを,多くの資料を参照しながら考察したものでした。

 私はその発表を聴きながら,ときどき独りで妄想モードに入り,レジュメの余白に思いつきをメモしていました。


 今日はそのメモに基づいた与太話を書き散らしてみます。

「走れメロス」をめぐる与太話

 そもそも「走れメロス」とはどのような小説なのでしょうか。

 発表されたのは, 1940年(昭和15年)5月発行の雑誌『新潮』です。

 翌6月には単行本『女の決闘』(河出書房)に収録されています。

 家庭人として精神的に安定した生活を送り,ポジティブなイメージの小説をたくさん書いた太宰治中期の代表的な作品です。



 ここらへんから与太話になります^^;



 さて,与太話その1です。

 「走れメロス」を執筆しようとしていた時期の太宰治(本名:津島修治)の意識に影響を与えたかも知れない現実の出来事として,皇紀2600年の恩赦(2月11日実施)をあげることができます。

 このとき恩赦を受けた人物として最もよく知られるのは阿部定ですが,注目したいのは1930年11月に東京駅で濱口雄幸首相を銃撃した佐郷屋留雄が恩赦により釈放されていることです。

 この出来事は,1921年11月に東京駅で原敬首相を刺殺し,1934年に恩赦により釈放された中岡良一の記憶を呼び起こします。

 〈権力者とナイフと恩赦〉というセットは,「走れメロス」と同じです。

 「王を除かねばならぬ」と決意したメロスが「短剣」を懐に隠し持って城に乗り込んで捕まってしまったにもかかわらっず,最終的には恩赦を受けて死刑をまぬかれるのです。



 さてさて,続いて与太話その2です。

 〈権力者とナイフと恩赦〉というセットの代わりに,〈弾圧と同志と家〉というセットを抽出してみます。

 まるで転向文学です。

 もちろん,権力に弾圧されることで同志を裏切り家父長制に屈服するのが転向文学であるとするなら,権力者に弾圧されながらも同志を裏切らず家父長制との両立をはかるのが「走れメロス」です。

 すなわち「走れメロス」は,非転向小説,アンチ転向小説,脱転向小説なのです。

 転向の嵐が吹き荒れた時代の後に執筆された「走れメロス」は,同時代を生きている転向者にとっては,自分がなり得なかった“もう一人の自分” を描いたロマンチックな小説だったのだと言えます。

 大地主の家に生まれたという後ろめたさから左翼運動に加担したにも関わらず,結局は活動家としての己を全うすることのなかった太宰治にとっても,メロスは同じような意味合いにおいて“もう一人の自分” だったに違いありません。

 しかもそれは,政治的な活動からの転向(裏切り)ということだけではなく,心中したにもかかわらず自分一人だけが生き残ってしまったという事件とも響き合うところがあります。

 そのようにして生まれた「走れメロス」は,信念を貫き,誰も裏切らず,誰も殺されることなく,みなが生き残る物語です。

 同志を裏切り見殺しにしてでも生きていくしかないという時代であるからこそ,信頼と友情の物語が生み出され,受容されていったのだということです。

 同志を裏切り見殺しにしてでも生きていくしかない時代…です。

 転向文学が書かれた1930年代や「走れメロス」が書かれた1940年代のことだけを言っているわけではありません。

 1956年に初めて教科書に採録されて定番教材として受容されている「走れメロス」がいまだに求められ続けているのだとすれば,対米戦争から対米従属へと180度の転換を果たした(余儀なくされた)敗戦後はもちろんのこと,21世紀の今でも私たちは同志を裏切り見殺しにしてでも生きていくしかない時代のさなかにいるということなのかもしれません。

 …いやいや,この話はやはり,与太話!?

震災後文学論(1)―芥川龍之介

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関東大震災と芥川龍之介

 昭和文学のはじまりを象徴する出来事として,関東大震災芥川龍之介の死をあげることができます。

 大正12年9月1日と昭和2年7月24日。1923年と1927年。およそ4年の時を隔てた2つの出来事は,一見まったく無関係にも見えます。

 でも,2011年の東日本大震災から三年を経た2014年という時点に立ってみると,2つの出来事が無関係だと考える方が不自然だと思えてきます。

 「ぼんやりした不安」という言葉を遺した芥川龍之介の自殺の原因についてはこれまでにもさまざまに議論されてきましたが,どのような原因を想定するにしても「だから自殺した」と単純に結論づけることはできないでしょう。

 「或旧友へ送る手記」(『東京日日新聞』1927.7.25)に書きつけられているように,「生活難とか,病苦とか,或は又精神的苦痛とか,いろいろの自殺の動機」などと列挙するほかにはなく,大半の自殺は,たとえ引き金となる出来事を特定できたとしても,それだけが理由であると断定できるほど単純なものではないはずです。

 そこにはおそらく,本人にすら意識できない要因が横たわっています。

 そうだとすれば,芥川龍之介が「ぼんやりした不安」を感じて自殺を選び取った原因の一つに,関東大震災という出来事を想定することも可能なはずです。

 たとえば,「大震雑記」(『中央公論』一九二三・一〇)の中で芥川龍之介は「焼死した死骸を沢山見た」と語り,浅草仲見世の収容所にあった印象的な死骸にまつわる挿話を書き留めています。

 焼け残った「メリンスの布団」に足を伸ばし,覚悟を決めたようにゆかたの胸の上に手を組み合わせた「病人らしい死骸」の話です。

 苦しみ悶えた様子も見せず,唇に微笑を浮かべているのではないかと思えるような静かな死骸のたたずまいに芥川龍之介は感じ入るのですが,「それはきつと地震の前に死んでゐた人の焼けたのでせう」という妻の一言で「小説じみた僕の気もち」が興醒めになってしまいます。

 対象を描写する近代的な口語体による淡々とした文章の中にむしろ,震災後の現実に向き合いながらも作家としての矜恃を保とうとする芥川龍之介の不安定な魂が感じられます。

 同じく震災直後に書かれている「大震日録」(『女性』一九二三・一〇)と「大震に際せる感想」(『改造』一九二三・一〇)では,一転して文語体が駆使されています。

 ただし,日記という体裁のせいでしょうか,前述した「大震雑記」と同じように比較的淡々と綴られている印象の「大震日録」と比べて,「大震に際せる感想」の書きぶりには激しい感情の起伏が見て取れます。(※青空文庫の「大正十二年九月一日の大震に際して」参照)

 日比谷公園の池に遊べる鶴と家鴨とを食はしめし境遇の惨は恐るべし。されど鶴と家鴨とを、――否、人肉を食ひしにもせよ、食ひしことは恐るるに足らず。自然は人間に冷淡なればなり。人間の中なる自然も又人間の中なる人間に愛憐を垂るることなければなり。鶴と家鴨とを食へるが故に、東京市民を獣心なりと云ふは、――惹いては一切人間を禽獣と選ぶことなしと云ふは、畢竟意気地なきセンティメンタリズムのみ。
 自然は人間に冷淡なり。されど人間なるが故に、人間たる事実を軽蔑すべからず。人間たる尊厳を抛棄すべからず。人肉を食はずんば生き難しとせよ。汝とともに人肉を食はん。人肉を食うて腹鼓然たらば、汝の父母妻子を始め、隣人を愛するに躊躇することなかれ。その後に尚余力あらば、風景を愛し、芸術を愛し、万般の学問を愛すべし。

 この部分は,「地震のことを書けと云ふ雑誌一つならず。何をどう書き飛ばすにせよ,さうは註文に応じ難ければ、思ひつきたること二三を記してやむべし。」と書き出されているのですが,震災後の東京の酸鼻を極めた現実の中で,職業作家であるがゆえに書くことを強いられている芥川龍之介の,憤怒に似た懊悩が伝わってきます。

 「大震に際せる感想」は,「この大震を天譴と思へ」と言った渋沢栄一に対する反駁をモチーフとしていて,後半部には次のような言葉も書きつけられています。

 誰か自ら省れば脚に疵なきものあらんや。僕の如きは両脚の疵、殆ど両脚を中断せんとす。されど幸ひにこの大震を天譴なりと思ふ能はず。況んや天譴の不公平なるにも呪詛の声を挙ぐる能はず。唯姉弟の家を焼かれ、数人の知友を死せしめしが故に、已み難き遺憾を感ずるのみ。我等は皆歎くべし。歎きたりと雖ども絶望すべからず。絶望は死と暗黒とへの門なり。

 この小文を「同胞よ。冷淡なる自然の前に、アダム以来の人間を樹立せよ。否定的精神の奴隷となること勿れ。」と結んだ芥川龍之介自身が,皮肉にもわずか三年後に「否定的精神の奴隷」となり,「死と暗黒への門」をくぐったことを考えれば,これらの激しい言葉の中にむしろ,書き手の精神が深刻な危機に瀕している兆候を読み取らなければならないのかもしれません。

震災後文学論(2)―川端康成

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震災後文学としての「浅草紅団」

 1920年代末の浅草を舞台に,都市の周縁を生きる不良グループの少女弓子を追いかけながら,最先端の時代風俗を活写した『浅草紅団』(先進社 1930年12月)は,川端康成が生み出したの傑作と目されてきました。

 ただし,「浅草紅団」に活写されている風俗描写には,「モダニズム」という言葉でくくることがためらわれるような風変わりなものが目立ちます。

 たとえば,当時のモダニズム建築で多用された新しい資材である鉄筋コンクリートで造られたものとして登場するのは,次のような建造物です。

 吉原近くの小さい公園――といふ程のものでなく、貧しい町の子供の遊び場だ。子供が二三人で、そこの共同便所を掃除してゐた。こんな綺麗な共同便所を、私は見たことがない。
「君達、こんなところを掃除するの?」
子供はけげんさうに私を見る。
「毎日?」
「ええ、時々。」
「どうしてね? 言いつかるか、頼まれるかしたの?」
「いいえ。」と、子供達は目顔で呼び合つて、こそこそと立ち去つてしまつた。そこで、公園の子守娘に聞いてみると、
「好きなんでせう、あれが。――自分の家よりもずつとモダンだし、あんな立派な家が使へるの、便所しかないから、いい気になつて、掃除してるんでせう。」

 「コンクリイトの便所」が描かれているのは,たんに当時の最先端風俗としてのモダニズムを象徴する光景として選ばれたからではありません。

 この場面の後で「浅草新八景」の有力候補として「私」が列挙するのは,「コンクリイトの言問橋や隅田公園」「鉄筋コンクリイトのビルヂング,地下鉄食堂」,そして「コンクリイト建てに,鉄棒の牢格子のやうな扉の寺――広小路の突き当りに今普請中の専勝寺」などです。

 このような鉄筋コンクリートで造られた建造物へのこだわりには,震災後という時間がくっきりと刻印されています。

 しかもそれは,震災からの復興を象徴する肯定的なものであるというよりもむしろ,震災後になお人びとの心に残るトラウマを逆照射する光源としての意味を持つものです。

 つまり,子供達がコンクリートを偏愛し,便所掃除に熱心に取り組むのは,数年前に起きた関東大震災を体験しているからであるにちがいないのです。


 便所掃除をしている子どもたちは,おそらく自分が住んでいた木造家屋を地震で失っているはずです。

 自分を守ってくれていた両親や,共に生きてきた兄弟などの家族を亡くしている可能性もあります。

 地震によって倒壊したり,その後の火事によって焼失したりした木造家屋のもろさと,自分を守ってくれる存在のはかなさを知っている子どもたちだからこそ,揺れにも火にも強い鉄筋コンクリート製の建造物に惹かれているのではないでしょうか。

 それが仮に便所であっても,自分たちが出入り可能な居場所であり,確固たる存在感を持つものである限り,「コンクリイトの便所」は尊いのです。

 便所掃除のエピソードは,子どもたちの心が大震災によって深く傷ついていることを暗示しています。

 「コンクリイトの便所」を偏愛する子どもたちは,「被災者」なのです。

 同じように,「浅草紅団」にしばしば登場する「浮浪人」も,もともと定まった住居や職業を持たなかったわけではなく,震災によって家族を失い,コミュニティーを破壊され,社会関係資本を喪失して行き場をなくした「被災者」です。

 たとえば,冒頭部近くにさりげなく書き込まれた「浮浪人」の姿にも,震災がくっきりと影を落としている。

 瓢箪池の岸に人だかりがして,笑つてゐる。小春日和の日ざしが,それらの後姿を温めてゐる。だが,のぞいて驚いた。そこはちやうど瓢箪の結びにあたつてゐて,池の中に小さい島があり,両岸から藤棚のあるある橋がかかつてゐる。その島の立花屋というおでん屋の前,枝垂柳の下の八つ手の傍に,大きい男が突つ立つて,池の麩を拾つて食つてゐるのだ。くるぶしの上まで水に入れながら,七尺ばかりの竹で水の上の麩を掻き寄せては,仁王立ちのまま,むしやむししゃ食つてゐるのだ。
「ひでえ気違ひだな。鯉の上前をはねてやがる。」と,こちら岸ではまた大笑ひだ。十四五切れの麩をむさぼりつくすと,彼は素知らん顔で,おまけにまことに威風堂々と立ち去つてしまつた。

 あまりにも常軌を逸したふるまいですが,飢えに耐えかねてということだけではなく,震災後という時空の中に身を置いて受けとめてみれば,そこにはさまざまな了解の糸口が見えてきます。

 地震で崩壊した凌雲閣を友人と二人で見物した「私」が,「上野の山の人々の噂」として,「浅草の十二階の塔」に登っていた見物客の多くが地震の揺れで振り飛ばされ,瓢箪池に「うぼうぼ浮いてる」という話を伝えています。

 十二階から転落した犠牲者であるかどうかはともかく,火災を逃れて池や川で絶命したという悲劇は,吉村昭『関東大震災』(文藝春秋 1973年8月)に描かれている吉原の弁天池での惨事をはじめ,数多く報告されています。

 池や川に浮かぶおびただしい溺死者たちの姿は,焼死して炭化したり白骨化した被害者たちの姿とともに,関東大震災の惨状を目の当たりにした人々にとっては忘れがたい映像だったに違いありません。

 そのような光景の記憶が影を落としているはずの瓢箪池で,鯉に与えられた麩を食べる男の姿は,被災地東京の読者にとっては,尋常ではない衝迫力を持つものだったのではないでしょうか。

 たとえば,震災直後に「池に遊べる鶴と家鴨とを食はしめし境遇の惨」を嘆き,「人肉を食はずんば生き難しとせよ」と叫んだ芥川龍之介が自殺せずに「浅草紅団」を読んだとしたら,「麩を食う男」「腑を食う男」を感受したかもしれません。

震災後文学論(3)―梶井基次郎

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桜の木の下には屍体が…

 ソメイヨシノが生まれたのは,江戸末期のことだと言われています。

 種子で増えることがなく,接ぎ木でしか繁殖しないソメイヨシノは,すべて人工的に植樹されたものです。

 公園や学校,街路や河川敷など,都市空間を整備する事業を行った時にほぼ同じ樹齢の若木が植樹され,同じように育ち,同じように朽ち果てていくのです。

 一説には,樹齢はおよそ70年と言われ,100年を超える老木はほとんど存在しないそうです。

 また,接ぎ木でしか繁殖しないクローン種であるために,気温や日照などが同じ環境であれば同時に花を咲かせます。

 東京学芸大学や国際基督教大学など,軍事施設があった場所をキャンパスに転用した大学に植えられたソメイヨシノは,戦後70年を来年に控え,そろそろ天寿を全うする計算にななります。

 関東大震災における死者・行方不明者は,10万人を超えると言われています。

 本所の陸軍被服廠跡だけでも3万8千人もの犠牲者が出ているという。おそらく大半の遺体は,葬儀らしい葬儀が執り行われることもなく埋葬されたはずです。

 もちろんねんごろに弔われた遺体もあったでしょうけれど,全ての遺体を火葬して墓地に納骨することは困難だったはずで,穴を掘って「仮埋葬」された身元不明の犠牲者も多かったに違いありません。

 どのような場所に「仮埋葬」されたのか,詳しいことはよくわかりませんが,避難場所としても使われたような広い遊休地や公園などの一角などが選ばれた可能性が高いです。

 防災目的を兼ねて整備された震災復興公園や復興小学校の敷地も,震災時には遺体が運び込むために使われた土地だったのかもしれません。

 そのような想定の下に梶井基次郎「桜の樹の下には」(『詩と詩論』1928年12月)を読むと,桜の美の中に惨劇を幻視した散文詩であるというような狠蠑歸な甓鮗瓩任郎僂泙覆い發里感じられます。

 これはじつは,事実をありのままに語っただけの単なる犹曲賢瓩鵬瓩ないのではないかと思えてくるのです。

 桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!
 これは信じていいことなんだよ。何故つて、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことぢやないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だつた。しかしいま、やつとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる。これは信じていいことだ。

 震災の年に京都にいた梶井基次郎は,震災翌年の1924(大正13)年に東京に転居しています。

 そんな梶井基次郎が関東大震災の5年後に発表した「桜の樹の下には」ではありますが,東日本大震災から3年あまりを経た時点に立つ私には,この犹曲源蹲瓩震災後文学に見えています。

 岩手からも宮城からも福島からも離れた場所で生きて来た私の実感からすると,震災当日に被災地から遠く離れた京都にいたとしても,時間的に5年の隔たりがあったとしても,震災が梶井基次郎の精神に影を落とすということは,十分にあり得ることだと思えるのです。

 もちろん,メディアを通して伝えうる情報の質は,当時と今とではまったく異なります。

 しかし一方で,被災地の外に留まり続けている私とは異なり,梶井基次郎が被災地である東京に移住していることは見逃せません。

 あちこちに震災の傷跡を残しながらも,復興への歩みを始めていたはずの東京で,いったい何を見て,どのような話を聞いたのでしょうか。

 噂話のたぐいを含め,関東大震災の生々しい記憶が,梶井基次郎の精神に何らかの影を落としていたのではないでしょうか。

 だとすれば,震災後に順次整備されていった震災復興公園などに新たに植えられたソメイヨシノから受け取ったヴィジョンが,「桜の樹の下には」という特異な表現に結実した可能性を指摘することができます。

 そして,「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!」などと書けたのは,梶井基次郎が震災の当事者ではなく,被災地外から来た余所者だったからなのではないかということも,付言しておく必要があるでしょう。




先生はじつはお見合いをしていた?―夏目漱石「こころ」再読

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100年目の「こころ」再読

 石原千秋さん責任編集の『夏目漱石「こころ」をどう読むか』(河出書房新社)を読みました。

 『朝日新聞』が今年の4月20日から100年ぶりに再連載している「こころ」は,教科書の定番教材としても読み継がれていて,多くの日本人が一度は目を通したこと“古典”です。

 その「こころ」を論じている対談やエッセイや論文などを読んでいると,おのずと「こころ」の本文が想起され,心の中で再読し味読しているような気分になりました。

 何度読んでも面白く,再読するたびに発見のある「こころ」は,“古典”と呼ぶにふさわしい小説です。

 およそ30年前,発表されて間もない頃に読んだときには,まるで一卵性双生児のようによく似ていると感じた石原千秋さんの「眼差しとしての他者―『こころ』」と小森陽一さんの「『こころ』を生成する心臓(ハート)」が,それぞれ異なる相貌を持った論文として読めたことも,再読の面白さを感じさせてくれる出来事でした。

 そして,読みながら,夏目漱石の「こころ」をめぐるさまざまな気づきに導かれました。

先生とお嬢さんのお見合い

 たとえば,こんな気づきがありました。

 石原千秋さんは「奥さんやお嬢さんと連れ立って買い物に行くという構図」「まさに一家団欒そのもの」だと指摘した上で,反物の入った戸棚の前で座っているお嬢さんを視野に入れつつ,奥さんが急に改まった調子で「どう思うか」と聞く場面を引用した上で次のように指摘しています。

 この時、先生と奥さんはお嬢さんの結婚問題について話していたのだが(まさに「主人」ではないか)、その話を聞きながら、お嬢さんは先生の買ってくれた反物をわざわざ戸棚から「引き出して」手にしている。しかも、「私の着物もお嬢さんのも同じ戸棚の隅に重ねてあった」。これが、お嬢さんの「此問題」についての答えでなくて、また、重ねられた二人の着物が二人の運命の暗喩でなくてなんだろうか。

 これはこれで面白い話で,30年近く前に読んだときも,その分析の鮮やかさに感じ入ったことを記憶しています。

 ただ今回はそれだけでは終わらず,「奥さんやお嬢さんと連れ立って買い物に行く構図」(下十七)には,もう少し別の文脈が掘り起こせるのではないかと気づいたのです。

 明言されていないので,もしかすると先生自身も十分に自覚できていないのかもしれません。

 でも,書き留められている出来事の背後には,潜在的な解釈の可能性を指摘することができます。

 それは,「奥さんとお嬢さんと連れ立って買い物に行く構図」とは,“お見合い”に他ならなかったのではないかということです。

 どこで刷り込まれたものなのかわかりませんが,いわゆる“お見合い”というと,私は立派なお座敷で両家の両親と仲人が同席して行われるきわめてフォーマルなものを思い浮かべてしまいます。

 しかしこうした通念は,明治時代や大正時代には通用しないところがあります。

 青空文庫「見合い」を検索語にしてリストアップした小説を読みあさっていくと,ひとくちに“お見合い”と言っても,さまざまな形態があったことがわかります。

 たとえば,働いているところを見に行ったり相手の家を訪問したりという“お見合い”が描かれています。

 駅で待ち合わせて一緒に地下鉄に乗るというお見合いもありますし,近所の通りで何度かすれ違うだけでもお見合いとしての役割を果たす場合があったようです。(「青空文庫のなかの見合い」参照)

 明治から大正・昭和に至る時代のそういう“お見合い”のありようを考えると,若い男女が家長の監視下で行動をともにする次のような状況は,それはそれでもう十分立派な“お見合い”ではなかったかと思えてくるのです。

 奥さんは自分一人で行くとはいいません。私にもいっしょに来いと命令するのです。お嬢さんも行かなくてはいけないというのです。今と違った空気の中に育てられた私どもは、学生の身分として、あまり若い女などといっしょに歩きまわる習慣をもっていなかったものです。(中略)お嬢さんは大層着飾っていました。地体が色の白いくせに、おしろいを豊富に塗ったものだからなお目立ちます。往来の人がじろじろ見てゆくのです。そうしてお嬢さんを見たものはきっとその視線をひるがえして、私の顔を見るのだから、変なものでした。

 これだけでも,青空文庫的には立派な(?)“お見合い”であったと思えてきますが,さらにこんな記述も続いています。

 三人は日本橋へ行って買いたいものを買いました。買う間にも色々気が変るので、思ったより暇がかかりました。奥さんはわざわざ私の名を呼んでどうだろうと相談をするのです。時々反物をお嬢さんの肩から胸へたてに宛てておいて、私に二、三歩遠退いて見てくれろというのです。私はそのたびごとに、それは駄目だとか、それはよく似合うとか、とにかく一人前の口を聞きました。

 このあと3人は「木原店という寄席のある狭い横丁」にある飲食店で食事をして帰ります。

 こんな店をどうして知っているのかというところに先生は驚きを感じていて,奥さんはどうやら食事場所もはじめから決めていた様子です。

 青空文庫で見合いを描いた小説を読んだ私にとっては,“お見合い”フレーバーがぷんぷんして来る感じです。

 考えてみれば,先生の両親とお嬢さんの父親はすでに他界していますから,お見合いに必要な当事者はすべて揃っているわけです。

 そして面白いのは,語り口から考える限り,先生はこの日の出来事をお見合いだとは考えていないと思われることです。

 その一方で,先生の叙述から読み取れる具体的な状況の数々は,奥さんやお嬢さんはこの日の出来事をお見合いであると考えていた可能性を示唆しています。

 そういう読みの可能性を想定した上で,買い物から数日後にお嬢さんが戸棚の中から反物を引き出して膝の上に置くという場面を読み直すと,奥さんの意識は当時の先生の意識はもちろんのこと,遺書を書く先生の意識ともずれた場所にあって,数日前の“お見合い”の成否に注がれているのではないかと思えてきます。

 お見合いをしたのだから,先生の気持ちを聞き出したいと思っている奥さんとお嬢さん。

 お見合いをしたという自覚がないままに,お嬢さんとの結婚を夢想し,それを言い出せずにいる自分を前に逡巡する先生。

 鈍感な先生は自分が奥さんとお嬢さんからどのように眼差されているのかを理解することができないまま,あくまでもお嬢さんの結婚問題が一般論として,また先生自身とは無関係のこととして話題にされていると勘違いをして「なるべくゆっくらな方がいいだろう」と答えてしまうのです。

 もちろんそれを奥さんは,お見合いに対する先生の返答だと受け止めます。

 「ゆっくらな方がいいだろう」というのは,明確なYESではありませんが,同時にNOでもありません。


 勘違いしたまま口にしたこの言葉は,勘違いを露呈させることなく奥さんに受け止められます。

 この台詞はじつに絶妙です。

 三人で買い物に行ったときの先生の意識と,それを遺書の中で想起するときの先生の意識。

 先生の意識のありようとは別の問題として,遺書の記述から浮かび上がってくる買い物に行ったときの状況。

 そこから推測しうる奥さんやお嬢さんの意識。

 青年が読んでいる(あるいは公開している)先生の遺書からは,さまざまな位相の物語が紡ぎ出されます。

 そしてそれらの物語は,矛盾をはらんだまま共存し,展開していきます。。

 夏目漱石の「こころ」を“古典”と呼びうるのは,このような文脈の重層性が小説のすみずみにまでビルトインされているからなのではないでしょうか。

悪食・鯨飲・甘食・粗食―有名作家グルメ喰いズ!

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グルメ喰いズ 前書き(食前酒)


 “食べる”という営みは,“命”を頂くことによって“生”をつむぐことです。

 “食べる”という営みは,人間というものが原子的な生命の延長線上にいる“欲望するチューブ”であるという現実を思い起こさせてくれます。

 また,ときにそれは,“性”とともに“家族”のありようを照らし出す光源です。

 そんな“食べる”という営みの不思議につながる作家たちの食生活をネタに,クイズを作ってみました。

 いったい誰のことなのか,文学者の名前を当てて下さい。

 わかった問題があったら,コメント欄に答えを書いて下さい。

 よろしく御願い申し上げます<(_ _)>。。。


有名作家グルメ喰いズ!


第1問
 まんじゅうを4つに分け,その1つをごはんの上にのせて煎茶をかける「まんじゅうのお茶漬け」が大好物。煮て砂糖をかけた果物を好み,水蜜桃,あんず,梅などをよく食べたと言います。顔に似合わず甘党。一方でビールの研究もしていました。麦飯反対論者として有名ですが,家でもやはり麦飯は食べなかったんでしょうか。

第2問
 大食らいで,大袋入りの煎餅を平らげ,お寿司を二人前食べるなどは当たり前。夕食後に鴨南蛮と五目蕎麦を食べた上に餅菓子3個を平らげることもあったそうです。奨学金が入ると,牛肉を食べに行き,デザートには梨なら大ぶりのものを6つか7つ,樽柿なら7つか8つ,ミカンなら15~20個は食べたと言います。法隆寺でも柿を大量に食べて鐘の音を聞いたのでしょうか。若くして亡くなったのは大食らいのせいではないんでしょうけど,すごいですね。

第3問
 胃弱なのに脂っこいもの,洋食のこってりした料理が好きで,ビフテキかすきやきがあれば機嫌が良かったそうです。また,砂糖でかためたピーナッツ菓子,シュークリーム,アイスクリームなども好んだそうです。今も営業している精養軒松本楼などの洋食店の料理を楽しみ,松榮亭の名物料理洋風かき揚げも好物でした。苺ジャムをひと月に8缶も空にするなど,無茶な食生活で胃をこわしたというイメージがありますが,じつはピロリ菌のせいだったという説もあるそうです。ピロリ菌を駆除することが出来ていれば,もっとたくさんの近代文学史上に残る名作を書くことができたのかもしれません。

第4問
 友人を誘っては蕎麦で一杯。とは言ってもビールや日本酒ではなくサイダーだったそうです。当時の流行りは三ツ矢シャンペンサイダー。1884年(明治17)発売の「三ツ矢平野水」の進化形で,砂糖を煮詰めたカラメルや舶来者のサイダーフレーバーを加えていたそうです。天ぷらそばが15銭だった時代にサイダーは23銭もしました。今ならさしずめスターバックスで「チョコレートクリームチップフラペチーノEXクリームキャラソがけ」を注文するような感じでしょうか。玄米食と味噌と少しの野菜というイメージで質素な生活をしていたイメージがありますが,実は意外と贅沢だったということでしょうか?

第5問
 第1に中華料理,第2に日本料理。西洋料理はあまり好きではなかったそうです。とは言え,関西に住んでいた頃はデリカテッセンのクリームチーズやマルジュウのガーリックソーセージなどもお気に入りでした。北大路魯山人から「美味しんぼ」の海原雄山にいたる「美食倶楽部」の系譜に連なる作家であるとも言えます。究極の料理への欲望は性的欲望に通じ,もしかするとこの人の食を芸術へと昇華していたのではないかと思わせるようなところもありますが,実際のところはどうだったのでしょうか?

第6問
 今で言う「おひとりさま」として自炊と外食のバランスをとりつつ「食」を楽しんだ粋人。晩年は外食の割合が多かったようで,どぜう飯田屋今半大黒屋など多くの名店を訪れました。同じ品を毎日のように食べ続けるというのがお得意のスタイルで,アリゾナ(アリゾナ・キッチン)では肉料理とビールを2本注文し,15日間も同じメニューを食べ続けては他の料理に移るという食べ方を繰り返していたと言います。ストリップ劇場に通いつめていたことと,どこか通じるところがあるのでしょうか?

第7問
 ねばねばしたとろろが苦手。お酒は白葡萄酒ぐらいでほとんど飲まず,上野広小路のうさぎやの最中を好む大正スイーツ男子だったそうです。小食でだいたいにおいて粗餐。ブリの照り焼きが大好物で,それさえあれば何もいらないというほどでした。繊細なイメージそのままに,ガツガツ食べるタイプではなかったということでしょうか。ジンジャーケーキにはしょうがが入っていると言われただけでお腹の具合が悪くなったこともあるそうです。

第8問
 仙台の洋食店としては草分け的存在であるブラザー軒のカツレツのことを小説の中で「固くて靴の裏」と書いているのは歯が悪かったからかもしれません。何かというと,豆腐ばかりを食べていたそうです。バナナ,筋子,納豆も好きで,こだわりは味の素。お汁粉や羊羹,まんじゅうにもかけていました。裕福だった生家は養鶏業も営んでいたので,自分で鶏をさばいては水炊きにして食べることもあったそうです。



 以上のクイズ作成にあたっては,大本泉さん『作家のごちそう帖―悪食・鯨飲・甘食・粗食』(平凡社新書)を参照しました。

 この他にも面白エピソード満載です。

クイズで取りあげた作家を含め,与謝野晶子,志賀直哉,川端康成,岡本かの子,林芙美子,池波正太郎,向田邦子などの22人の作家の人と文学を「食」を切り口に語っています。

 さらりと書いていて,とても読みやすいですが,密度の濃い内容です。

 コスパが良いとでも申しましょうか,おすすめです!

日本文学協会のシンポジウムと湘友会セミナー「教科書と文学」

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シンポジウム「教科書と文学」@学習院大学

 日本文学協会(日文協)の第69回大会が11月15日(土)・16日(日)の2日間,学習院大学で開催されました。

 長い歴史を刻み,機関誌を月刊で発行している全国規模の学会ですが,近年のシンポジウムは100人に満たない参加者であることも珍しくなく,国文学関連の雑誌の廃刊が相次ぐなどの状況とあいまって,文学関連学会の地盤沈下を感じさせるところがありました。

 しかし今回は,7つのラウンド・テーブルを並行開催した2日目の午前の部から盛り上がりを見せ,午後の部として開かれた「国語教育・文学研究合同シンポジウム」には、200人を優に超える来場者があり,近来まれに見る盛会となりました。

 盛会だった理由はいくつか考えられます。

 1つ目は,午後のシンポジウム「教科書と文学」に石原千秋さん小助川元太さん須貝千里さんの名前が並んでいたことです。

 とりわけ鋭い舌鋒で田中実さんの「第三項理論」を切り崩す石原千秋さんと,一歩も引かずに論陣を張る「田中理論」擁護派の須貝千里さんの対決は,ジャイアント馬場VSスタン・ハンセンのような壮絶な戦いでした。

 真ん中に座った小助川さんが,両者の間で目を左右に泳がせながらマイクの受け渡し役をしている絵も,ユーモアをバトルと共存させているという点でプロレスさながらでした。

 お2人の名前が並んだことで,激しい論戦に対する期待値が高まったというのが,考えられる理由の第一です。

 2つ目は,日文協運営委員長の前田雅之さん発案のラウンド・テーブルによる集客効果です。

 7つのテーブルに多くの発表者と参加者が集い,それらの人びとの多くは,そのまま午後のシンポジウムにも参加しました。

 ちなみに,私は「教室の中の文学―夏目漱石の『こころ』をどう読むか」というラウンド・テーブルを実施したのですが,このテーブルだけでも発表者を含め30人もの参加者がありました。

 3つ目は,「教科書と文学」というテーマを掲げ,「国語教育・文学研究合同シンポジウム」として実施したことです。

 岩波書店の雑誌『文学』2014年9・10月号の特集は「文学を教えるということ」でしたし,昨日届いた『リポート笠間』の特集「古典を伝えるということ」にも,巻頭の「研究者が国語教育を考えるということ」(竹村信治)をはじめ,文学と教育をめぐる論考が並びました。

 日本近代文学会や比較文学会などの文学関連の学会が,日文協のラウンド・テーブルと同じように並行していくつもの会場で発表をするようになったのは,多くの研究者が同じように関心を持って集う場を作りにくくなっていることの現れだとも言えるわけですが,「文学と教育」とか「教科書と文学」のような場であれば,まだまだ顔をつきあわせて語り合える可能性があるということなのかもしれません。

 ちなみに,シンポジウムの詳細は,2014年4月号の『日本文学』に掲載予定です。

湘友会セミナー「教科書と文学」

 今週の土曜日(11/29)神奈川県立湘南高校の同窓会が主催する湘友会セミナー「教科書と文学」という講演をします。

 日文協の大会と同じテーマになっているのですが,それはご愛敬ということで…。

 アクティブ・ラーニングやジグソー法,電子黒板やデジタル教科書など,様変わりしつつある教育現場の話をしながら,教科書編集や定番教材の誕生について語ります。

 残念ながら湘南高校関係者の方に限るのですが,卒業生・在校生,あるいは保護者の方ならどなたでも大歓迎です。

 深紅の大優勝旗をはじめとする展示物だけでも一見の価値がある湘南高校歴史館へ,どうぞお越し下さい。

“福島の現状”とクリスマスの約束―震災記(21)

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福島の教員が語る福島の現状

 福島県立安積黎明高校の今野充宏先生が,東京で開催された会合で配布した資料の中に,「今の福島県民の内面」「大きな3つの特徴」が記されていました。

 1つは「原発災害」の風化を求める暗黙の欲求があること。「原発災害」については触れない、無かったことにしたい、「原発災害」を早く忘れてしまいたい意識が強く働いていると思う。教育現場でも「早く震災前に戻る」こと、つまり「日常化する」ことが第一の目標とされてきた。普通の校舎で普通に授業をし、普通に部活動をし、普通にスポーツ大会をし、普通にマラソン大会をすることができる状態に戻ることが、復興だと考えられてきた。何事もなかったかのように。
 2つめは「健康の安全神話」を信じたいと思っていること。「御用学者」などがとなえる「この程度の被曝では健康に影響はほとんどない」という言葉を信じたいと考えている。しかし「(放射線が)見えないストレス」「(健康への被害が)わからないストレス(モルモットになっているのではないかという不安)」を抱えていると思われる。(事実として放射線は確実に存在し「放射線は浴びないに越したことはない」と言われると不安になるのだ。)
 3つ目は「分断して統治」され、「賠償」に不満を抱えていること。心が分断される最大の要因は「賠償」の問題である。避難区域だけをとっても旧緊急時避難準備区域、特定避難勧奨地点、旧特定避難勧奨地点、旧警戒区域、避難準備区域、居住制限区域、帰還困難区域に分かれている。それぞれの区域で「賠償」が違う。まして、避難区域外、「自主避難」等へは全く違う。政策的に福島県民が分断されているように感じている。

―学習評価研究所主催:第12回「リーダー力をどう育てるか」配布資料(2014/12/13)より


 これからの社会を支えていく若者を育てるためにいったい何ができるのかを真摯に考えてきた教員の集まりで配布された資料です。

 そこには福島の現状が(もちろんそれはそのほんの一端に過ぎないのかもしれませんが)明確な言葉で綴られていて,被災地外にいる私にもはっきりと理解できました。

 引用したのは資料の一部分に過ぎませんが,文面からは被災地外の教員に「福島の現状」を伝えたいという今野先生のお気持ちも,ひしひしと伝わってきました。


 指摘されている特徴の1つ目も2つ目も,正常性バイアスと呼ばれているものです。

 震災の年の6月に私が訪れた岩手県宮古市や釜石市には,何か異様な空気がみなぎっていて,被災地の人々と話をしていても,その眼の色や声のトーンに何か尋常ではないものを感じました。

 ところが,昨年の夏に福島県立相馬高校を訪れたときも,つい先ごろ,同じ県立の新地高校を訪れたときも,非日常的な雰囲気は表立ってはほとんど感じられませんでした。

 高校生たちは,自転車を疾走させ,友と語らい,勉学にいそしみ,スポーツを楽しみ,清涼飲料水を飲み,ジャンクフードを食べていました。

 被災地外からやってきた私には,たしかに“何事もなかったかのように”見えました。

 彼らが望んでいるのは,震災について考えたり議論したりすることではなく,ふつうの勉強をすること,そのための手立てを教えてもらうことであるように見えました。

 もちろん尋常ではないと感じたのも,何事もなかったかのように感じたのも,ほかならぬ被災地外の私です。

 また,岩手と福島では,もちろん宮古と釜石でも新地と浪江でも,それぞれに状況は異なるはずです。


 そもそも,福島の人びとですら「分断」されているというのですから,日常なのか非日常なのかなどという単純な構図で現状を理解することはできないでしょう。


 被災地外にいる私が,被災地の高校生とともに震災について考えることなど,そう簡単に出来るはずはないのです。


 したがって私に出来ることと言えば,正常性バイアスに同調するように日常的な学習に焦点をあてた授業をしながら,その中に震災後を生きるためのささやかな学びの種を埋め込んでおくことだけでした。


クリスマスの約束2014

 12月25日と26日の両日,新地高校で冬期課外授業をしてきたため,小田和正「クリスマスの約束」を今年は録画で観ました。

 何かトラブルがあったせいなのか,2001年以来のダイジェスト放送が大半でしたが,それがかえって「クリスマスの約束」という番組のキモをくっきりと浮かび上がらせていました。

 2001年にたまたまチャンネルを合わせていて視聴して以来,欠かさず見続けてきた番組ですが,そもそものはじまりは,同じ時代を生きたミュージシャンたちとその音楽をリスペクトしている証として,彼らと同じ時空を共有し,彼らの歌をともに歌いたいという小田和正の思いでした。

 しかし,2002年に披露された桜井和寿の手紙も,2009年の伝説的なメドレー演奏の際に見られた共演者たちの戸惑いも,小田和正の思いがうまく共有されていなかったために起きた小さな悲劇でした。

 その後,桜井和寿はクリスマスの約束への出演を果たしますし,2009年のクリスマスの約束で見せた共演者たちのパフォーマンスの素晴らしさは,小田和正の思いが確実に共有されたことを強烈なまでにテレビの前の私に訴えかけてきました。

 桜井和寿はAct Against AIDSのような大義がないままにミュージシャンを集めようとしたTBSと小田和正に対して当初は不信感を持っていたようですし,2009年のメイキングでは共に歌うために何らかの旗が必要だと主張するアーティストたちと小田和正の間には越えがたい溝があるように見えました。

 わかりやすい大義名分がないままに個性的なミュージシャンたちを一つのステージに集め,心を一つにして共に歌わせることは容易なことではありません。

 しかし小田和正が「the flag」という曲を書いていることを考えれば,自らが政治的な旗を掲げて多くのミュージシャンを集めるということはそもそも考えにくいことでもあります。

 優れた楽曲を讃美し,その曲を生み出したミュージシャンをリスペクトすること,ただそれだけのために小田和正はクリスマスの約束を続けているのです。

 そのことが最も美しく結晶したのが,「クリスマスの約束2009」の“奇跡の22分50秒”だったのだということを「クリスマスの約束2014」を見て再発見しました。

 すべての楽曲はTBSテレビの歌番組を成立させるための手段であったわけですが,それはもはや単なる手段ではありません。

 むしろ目的でした。

 そして小田和正にとっては,TBSテレビの「クリスマスの約束」という歌番組の方が,ミュージシャンたちが楽曲を演奏するための手段になっています。

 そのことが14年も続いているこの番組の大きな魅力の一つになっています。




 さて,上記の2つの話は私の中で繋がっています。

 しかし,どうつながっているのかを,未だうまく説明することできません。

 でも,とりあえず書いてみました。


 今月の上旬に80万ヒットを達成したのですが,記念記事も未だに書かないまま,いつの間にか大晦日になってしまっていたからです。


 今月最初の記事にして,今年最後の記事です。



 最初の写真は,仙台空港近くで見た太陽光発電施設の建設現場です。

 …福島ではなくて宮城です^_^;




 新地高校からは巨大な火力発電所の煙突も見えました。

 …こちらは宮城との県境,浜通の最北にあるとは言え,福島県です。

 
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 高校卒業後の就職先は土木関係を中心に引く手あまたで,内定率は97%に達しているそうです。

 もちろんその中には原発関連の仕事をする企業もたくさんあるのでしょう。


 そういう現状をどう受け止めるべきか,未だよくわかりません。




 何だか未定稿。。。



 中途半端な感じは否めませんが,中途半端な記事を,中途半端にアップロードし,中途半端に今年を締めくくることにいたします。




 もちろん来年も未定稿をいとわず,中途半端な自分に耐えながら生きていくことにいたします。。




 皆様,どうぞよいお年をお迎えください。







 未





photograph by NJ

時代劇の全盛期―敗戦後カルチャー論(1)

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 かつて時代劇が栄えていた時代がありました。

 バラエティー番組なんてものは存在せず,ゴールデンタイムには各局がこぞって時代劇を放映していました。

 時代劇の全盛期!

 しかしそれはもはや大昔。

 前世紀のことなのでした。。。



 先日,春日太一さん『なぜ時代劇は滅びるのか』(新潮新書)を読みました。

 時代劇の作り手に焦点を当て,監督や役者などを実名をあげて徹底的に批判し,なぜ時代劇が滅びようとしているのかを明らかにした,「圧倒的な熱量で放つ、時代劇への鎮魂歌」です。

 木村拓哉が実名で批判されていることでも注目されていますが,もっとも執拗に攻撃されているのは岸谷五朗です。

 時代劇で“自然体”の演技をすることは大根役者のすることであるのみならず,単なる“怠慢”に過ぎないという趣旨でくりかえし酷評されています。

 容赦なしです。

 奥居香(岸谷香)のファンだから岸谷五朗に激しく嫉妬しているのかもしれない…などという邪推を思わずしたくなるほどでした(笑)。

 しかし春日太一さんが語る時代劇の滅びの問題を通して私が興味を覚えたのは,むしろいったいなぜ時代劇はそれほどまでに栄えていたのかということです。

 たとえば1950年代の時代劇映画は,今では考えられないほど,凄まじい人気を博していたと言います。

 毎年の年間配収ベスト10の上位は時代劇映画が独占をし続け、その波に乗るように制作本数も一九五五年の年間百七十四本を頂点に、毎年百五十本前後を記録している。

 テレビやインターネットが普及し,シネコンがスクリーン数を増やしている近年の映画界と単純に比較することはできませんが,当時は公開映画1本あたりの入場者数が現在の10倍以上でした。

 しかも映画の制作本数は400本ほどだから,およそ4割が時代劇だったことになります。

 現在は600本ぐらいが制作されているにもかかわらず,楽天エンタメナビによると昨年制作された時代劇は,『超高速参勤交代』『忍ジャニ参上!未来への戦い』(!)など9本に過ぎません。

 いったいなぜ1950年代に時代劇がそんなにも愛されていたのかということを解くためには,当時の日本人の心理機制ということを考えざるを得ません。

 時代劇は言わば“敗戦後カルチャー”だったのです。

 敗戦後の日本人の心理に響く内実を持っていたからこそ熱狂的に迎えられ,敗戦後が遠ざかるにつれて廃れていったのです。

たとえば忠臣蔵とか…

 敗戦後まもなく『忠臣蔵』などの仇討ち・心中物の芝居を上演することが禁止されたという話があります。

 敗戦後,戦争犯罪国家として裁かれ,ついこのあいだまで敵国だったアメリカに占領されているという現実に抗うために,仇討ちものが人気を博し,それがやがて現実化することを恐れたということでしょうか。

 そんな状況証拠を踏まえれば,1951年にサンフランシスコ講和条約が締結されて連合国による占領がいちおう終止符を打った後に熱狂的な時代劇ブームが訪れているという事実は,偶然ではなさそうです。

 “外人レスラー”(当時の呼称です)を空手チョップでやっつける力道山が,プロレスの一大ブームを巻き起こしたのも,時代劇全盛期のことです。

 日本が東京オリンピックを開催して,スポーツと経済発展によって象徴的に“リベンジ”を果たした1964年,NHK大河ドラマ
 「赤穂浪士」が優に30%を超える視聴率を記録し,浪士の討入りが放送された回には53.0%という大河ドラマ史上最高視聴率記録を打ち立てました。

  元来は文楽や歌舞伎の演目である「忠臣蔵」は,300年以上にわたって受容され続けているわけですが,このような事情を勘案すると,“敗戦後カルチャー”という文脈の中に位置付けるべきであると思えてきます。

 時代劇とはいったい何だったのか?

 なぜそれは栄え,滅びようとしているのか?

 春日太一さんのように制作者の側から時代劇の帰趨を考察するのではなく,むしろ受容する側から考察してみると面白いのではないか…そんなことを思ったのでした。


 
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