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小林長太郎さんの「負荷」が消滅しました。。。

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負荷が消えました。。。

 恐れが消え,気がゆるみ,大丈夫,大丈夫と思っていたら,突然,恐れていたことが現実になりました。

 このブログのトップページ下部に「お気に入りブログ」が表示されているのですが,その中になぜか私自身が書いた記事のタイトルが表示されていました。

 「おかしいな…」と思い,アクセスしてみると,kobachouさん「負荷」が消滅してしまっていました。

 「小林長太郎まつり」はもうできません。。。

 私の呼びかけに応じて何人かの方が作って下さった「負荷」別館に転載された記事が残っているのがせめてもの救いです。

 それから,私たちの中に鮮やかに残っているコバチョーさんの記憶。。。

 小林長太郎さん,さようなら。



小林長太郎さんについて

 小林長太郎(こばやし ちょうたろう)は、日本の作家で、Yahoo!ブログ草創期に活躍した伝説的なブロガー。

 Yahoo!IDがrrrdx928であることから、9月28日生まれの天秤座である可能性が高いと言われているが,生年は不詳。本名も不詳。

 石野岩雄(いしの いわお)名義でもホームページを開設している。

 2005/2/24(木)に開設されたYahoo!ブログ「負荷」には、2005/2/25(金) の「このブログについて」から、2007/8/15(水)の「空蝉」という最後のエントリーまで、およそ2年半のあいだに1842本もの記事がアップロードされている。

 Yahoo!ブログ以外に開設されたホームページ等で判明しているものは以下の通り。

 ○石野岩雄非公式ホームページ(旧称:小林長太郎非公式ホームページ
 ○小林長太郎のとけて流れ出す(2005/02/27~2005/06/26)
 ○元社会保険事務所長こそ退職金を返還せよ(旧称:小林長太郎の穴)
 ○Brain in a Blog
 ○文学の終焉(旧称:小林長太郎の何か)(2005年03月13日21時42分14秒~2007年07月03日23時29分18秒)
 ●小林長太郎無残(グリーンクリーンブログ/すでに閉鎖,リンク先未確認)

 作家としては、第14回「織田作之助賞」(1997年) を 「夢の乳房」 で受賞している。小林長太郎 / 夢の乳房(関西文學, 1998 No.000 復刊準備号)(1998, 関西文学会)

 中日新聞北陸本社主催の第13回 日本海文学大賞 第一次選考会結果(2002年)に「小林長太郎(同板橋区)」とある。ブロガーとして活躍していた2005年以降も東京に居を構えていた可能性が高い。

 掌編小説の代表作に「喪われた町」がある。

「小林長太郎」に関する未確認関連情報

 高浜虚子のひ孫にあたる『玉藻』副主宰の星野高士氏と面識があるらしい。(「偉いってどういうことかね?」

 「日本喘息患者会連絡会」の「加入団体一覧表 〔34都道府県46患者会〕」(平成15年8月6日現在)に、「はとぶえ会(患者会名) 東京 小林長太郎」とある。

 「広島低肺友の会」の関連団体として「(賛)代々木病院はとぶえ会」の名前があり、そこに「会長 小林 長太郎」とある。

 「明治42年の全国の自転車生産者」(竹内常善著「形成期のわが国自転車産業」より)に,「小林工場 自転車付属品・パイプ 本所区菊川町 小林長太郎 明治37年2月」というデータが残されている。職工数8名。

 山形県東田川郡庄内町の『広報しょうない』(2007.5.20 No.45)に、庄内町西野在住の「小林長太郎」の訃報が掲載されている。2007年4月12日没。享年89歳。

「負荷」が消えた理由(仮説)

 長いあいだ放置され続けてきた「負荷」には,不適切なサイトへ誘導するためのコメントやトラックバックが増え続けていました。

 小林長太郎さんご自身が削除しない限り,これらのコメントやトラックバックはそのまま存在し続けます。

 そして,これからも少しずつ増え続けていきます。

 小林長太郎さんが意図しているわけではないのですが,結果として「負荷」は不適切リンクをたくさん貼った不適切ブログになってしまっていたわけです。

 そのようなわけで,規約に基づきYahoo!は「負荷」をブログごと削除した…ということなのでしょうか。。。

 そんな風に考えると,コメント欄やトラックバック欄がすべて承認制にされていない限り,放置されているブログは近い将来消えてしまうことになります。

 返す返すも残念です。


※まだ小林長太郎さんの記事を楽しんだことのない方は,ぜひこのブログの転載「負荷」別館でご覧下さい。

「なめらかな社会とその敵」がやって来た!

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流動化する世界と文学

 先月の17日(日)に青山学院大学で「電脳コイル」AKB48「源氏物語」が遭遇する,まるで異種格闘技戦のようにスリリングなシンポジウムがありました。

 「流動化する世界と文学」と題されたシンポジウムの内容は,来年4月に『日本文学』という雑誌に発表されるはずですが,注目されるのは,文学研究者の集まりに“天才プログラマー/スーパークリエータ”がやって来たことでした。
 ジョン・レノンは『境界のない世界』を夢想できただけだったが,鈴木健は科学によってそれを現実的に構築する方法を模索する。複雑性の思想から生み出されたいまもっとも可能性豊かな世界像。(中沢新一)
 鈴木健さんというのは,内田樹さんが今年2月13日のエントリーで絶賛した『なめらかな社会とその敵』の著者です。

 で,以下に掲げるのは,司会者として登壇した私が行ったシンポジウムの前口上を,メモに基づいて再現したものです。

 主として『なめ敵』(前出書)の著者紹介になっていて,ブックレビューのようなものでもあります。

 ご笑覧下さい。

シンポジウム前口上

 こんにちは。定刻を過ぎましたので,日本文学協会第68回大会2日目,文学研究の部のシンポジウムを始めます。

 ご案内のように,本日のシンポジウムは,鈴木健さん千田洋幸さん助川幸逸郎さんをお迎えして「流動化する世界と文学」というテーマで行います。

 会員として登壇している千田さんと助川さんについては,皆様よくご存じのことと思いますので,シンポジウムをはじめるにあたって,最初に発表をして頂く鈴木健さんについてご紹介をしながら,「流動化する世界と文学」というテーマについて,私なりにご説明致します。

 鈴木健さんは,慶應義塾大学理工学部物理学科を卒業後,東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。国際大学グローバル・コミュニケーション・センター主任研究員,東京財団仮想制度研究所フェローを経て,現在,東京大学総合文化研究科特任研究員および株式会社サルガッソー代表取締役社長をなさっています。

 2002年度に立ち上げた仮想通貨「PICSY」に関するプロジェクトが経済産業省の管轄する独立行政法人情報処理推進機構の未踏ソフトウェア創造事業に採択され,同年度の天才プログラマー/スーパークリエータに認定されました。

 専門は「電子貨幣・地域通貨,複雑系の理論認知科学,情報社会学」で,文学研究の世界から見ると,まったくの異分野,異業種から来た方と言えます。

 それでは,なぜ鈴木健さんにお越し頂いたかと言えば,今年1月に勁草書房から上梓されてたいへんな評判になっている御著書の『なめらかな社会とその敵』をお書きになった方であるから,ということになります。

 私の記憶では,今年の3月から5月ぐらいにかけて,さまざまなメディアの書評がこの本を取り上げ,各界に波紋を広げました。「内田樹がamazonにレビューを書いた」という出来事が,驚きとともにツイートされるような,ちょっとした事件でした。

 「なめ敵」という愛称で呼ばれるようになったこの本については,9月9日に仮想制度研究所で,VCASI(ヴィカシ)セミナー「鈴木健『なめらかな社会とその敵』論評会」が開催され,その模様がUstreamからも配信されました。

 瀧澤弘和さん(経済学)を座長に,岩村充さん(貨幣論),大屋雄裕さん(法哲学),猪口孝さん(政治学)など諸分野からの論点提起と,公文俊平さん(情報社会学),長谷川眞理子さん(行動生態学),與那覇潤さん(歴史学)など,専門領域を異にする錚々たるメンバーが5時間にわたって熱心にディスカッションを繰り広げました。

 なぜこのようなセミナーが開催されたのかと言えば,鈴木健さんのお仕事が,『なめ敵』の44ページに書いてあるように,「これまでの社会が依存してきたコアシステムと呼ぶべき社会制度そのものを,情報技術を用いて完全に置き換えてしまう必要がある」という問題意識に支えられ,300年先を見すえて「社会のバージョンアップ」を図るきわめてラディカルなもの―ここで言う“ラディカル”はややアイロニカルな意味合いを孕んでしまいますが―だからです。

 ただし,残念ながらVCASIセミナーに文学研究者も作家も召喚されていませんでした。

 したがって,鈴木健さんのご発表は,VCASI(ヴィカシ)セミナーにおいて行われ得なかった,あり得べき文学研究者との応答を,今日,この場で行うという意味合いが含まれることになります。

 Ustreamで聞いた鈴木健さんのお話の中には,興味深いトピックがいろいろあったのですが,その中の一つに「活版印刷の歴史的な影響は300年」という話がありました。本書でも,第六章129ページの「民主主義の再発明」というところに出てきます。

 グローバル企業はもちろん,経済学者も政治学者も,おそらく300年スパンで物事を考えていません。論評会でも,明らかに,そういう射程の違いがわざわいして鈴木健さんの問題提起の意味を受け取り損ねているように感じられる場面がありました。

 ひるがえって昨今の文学研究も,目先の業績にとらわれ,「300年スパン」で物事を考えることなど,殆どなくなっている気がします。

 たとえば,100年後に「文学」がどのように流通しているか,300年後に「日本文学研究」というものがどうなっているのか,など,そういう問いを立てて物事を考えている論文を読むことは,ほとんどありません。

 『日本文学』10月号の「大会に向けて」に書かれていた「人文学研究のディシプリン」とか「文学のディシプリン」という問題は,もしかすると,そういうところにも浮上してくるのかもしれません。

 また,そういう未来との関係の中で,文学や文学研究の現状をどのように評価すべきか,どのような未来が予想できるのか,ということにも関心を抱きます。多くの人は『なめ敵』を未来社会の「設計図」と考えているふしがありますが,もしかすると鈴木健さんが提示しているのは未来の設計図ではなく「未来予想図」なのではないかという気も致します。

 「なめらかな社会とその敵」というアイデアの中には,たとえば学会のメンバーシップの問題を考える鍵がありそうですし,「日本文学協会」という組織のあり方の問題,あるいは―ちょうど『日本文学』11月号で「格付けされる文学」という特集が組まれたばかりですが―文学の格付けや価値の問題,統一的整合的な人格を持った個人の存在を前提とする著作権の問題など,さまざまな問題を見いだすことができます。

 近年,「分人」という概念をめぐって旺盛な創作活動をしている作家の平野啓一郎さんとの関連で言えば,人間観の刷新,と言いますか,文学に描かれている人間像の更新のような問題も含まれているはずです。

 昨日の国語教育の部では,「〈第三項〉と語り」というテーマでシンポジウムが行われました。千田洋幸さんも,助川幸逸郎さんも,国語科教育の分野での業績をお持ちの方なので,昨日と今日がステップ関数のように分断されるのではなく,2つの分野,2つのシンポジウムがシグモイド関数のように,なめらかな姿を現してくれることをも期待しながら,3人のご発表を拝聴したいと思います。

 それでは,トップバッターは鈴木健さんです。よろしくお願い致します。

“文学”はどこへ?

 かつて文学者が“神様”“教祖”“知の巨人”たり得た時代がありました。

 人びとは人間の真実を求めて文学をむさぼり読み,作家の言葉を道標に世界がいかなるものであるかを知ろうとしました。

 文学が“ほんとうのこと”を教えてくれ,新しい時代を切り拓いてくれているように見えました。

 鈴木健さんのお仕事は,まさにそういう意味合いにおいて“文学”が果たすべきだった役回りを見事に引き受けています。

 平成も四半世紀を過ぎ,昭和と20世紀が遠ざかるにつれ,そういう文学の姿がくっきりとした輪郭を見せ始めているのですが,それは一方で“文学”が,あるいは少なくとも“近代文学”が,歴史上の出来事に変わりつつあることを意味しているのかもしれません。

魯迅の「故郷」の翻訳をめぐるいくつかの問題―“感想”以上“解説”未満の覚書

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中3国語教科書の定番,魯迅の「故郷」

 ヘルマン・ヘッセの「少年の日の思い出」や太宰治の「走れメロス」ほどではないかもしれませんが,魯迅の「故郷」は中学校の定番教材として長く読み継がれてきました。

 中学国語教科書の世界で最大のシェアを誇る光村図書の『国語3』に加え,東京書籍,学校図書,教育出版の3社が中学3年生用の教科書に採録しています。

 例外は今回の改訂で「高瀬舟」に差しかえた三省堂だけです。

 ということは,改訂前は5社すべてが魯迅の「故郷」を採録していたことになります。

 つまりは,20代から30代,40代あたりの日本人の大半が,中学3年生のときに魯迅の「故郷」を読んで育ったわけです。

 魯迅の「故郷」でピンと来ない人でも,コンパスそっくりの豆腐屋小町ヤンおばさんと,銀の首輪の小英雄ルントウ,ガリガリすいかをかじるチャー,タオチーだのチャオチーだのランペイだの…などという言葉を聞けば,「ああ,あれか」と思い出す人が多いに違いありません。

 その「故郷」をつい最近,台湾からの留学生と一緒に読む機会がありました。

竹内好訳「故郷」への疑問

 中国語を理解する留学生のおかげで,いろいろと面白い発見がありました。

 たとえば,こういう趣旨の質問を受けました。

 「本文では少年時代のルントウのことが『艶のいい丸顔』と表現されていますが,中国語の原文では「紫色的圓臉」となっています。それから,『そんなことで四、五日潰れた。』というところなども,原文では「三、四日」になっています。どうしてですか。」

 たしかに,青空文庫の井上紅梅訳「故郷」を見ると,「紫色的圓臉」は「紫色の丸顔!」とストレートに訳されています。

 これは「艶のいい丸顔」という健康なイメージではなく,どうやら不健康な状態を表す表現であるようです。

 ルントウの出自や「私」との身分の違いを暗示する表現だと考えてもよいかもしれません。

 それから,このような趣旨の指摘もしてくれました。

 「『お辞儀』という言葉の意味が気になっています。『お辞儀』というのは,立ったまま頭を下げるということだと思うのですが,たとえば『�乘頭』というのは『額ずく』ということで,頭を地に付ける動作を意味します。二つの動作はまったく違った意味を持つのではないでしょうか。」

 これも面白い話です。

 教科書の竹内好訳では,「シュイション(水生)、旦那様にお辞儀しな。」というルントウのセリフの中に「お辞儀」という単語が使われています。

 中国語の原文では「水生、给老爷�乘头」となっています。

 「�乘頭」の「�乘」という文字が使われているわけです。

 突っ立ったままのルントウが,息子のシュイションに額ずくことを強要している場面だという話になると,何かだいぶ印象が変わってくるのではないでしょうか。

 これまでにも,翻訳の問題について論じられることはありましたし,ヤンおばさんに対する日本人と中国人との受け止め方の違いなどについて指摘するなど,比較文学的な研究も進められてきました。

 しかし,日本語と中国語を理解する人が増えるにしたがって,ますますこのような観点からの読み直しが進展するのではないかと思われます。

翻訳文を比較してみると…

 丁秋娜さんの「魯迅『故郷』の教材研究 : 翻訳文学という側面から考える」という論文を参考に,中国語原文の「故郷」と翻訳文を比較してみましょう。

 たとえば,小説の結末近く,「私」が故郷を後にするところに次のような場面があります。

 船はひたすら前進した。両岸の緑の山々は、たそがれの中で薄墨色に変わり、次々と船尾に消えた。
 私といっしょに窓辺にもたれて、暮れてゆく外の景色を眺めていたホンルが、ふと問いかけた。
「伯父さん、僕たち、いつ帰ってくるの。」
「帰ってくる? どうしてまた、行きもしないうちに、帰るなんて考えたんだい。」
「だって、シュイションが僕に、家へ遊びに来いって。」
 大きな黒い目をみはって、彼はじっと考え込んでいた。
 私も、私の母も、はっと胸をつかれた。

 「わたしといっしょに窓辺にもたれて、暮れてゆく外の景色を眺めていたホンルが、ふと問いかけた。」というところは,原文では次のように表現されています。

 「宏兒和我靠着船窗、同看外面模糊的風景、他忽然问道。」

 教科書の竹内好訳は「模糊」という単語を「暮れてゆく」と意訳しています。

 しかし他の翻訳を見ると,「ぼんやりとした」(佐藤春夫訳),「ぼんやりした」(井上紅梅訳),「かすんだ」(竹内好訳・旧訳),「薄くかすむ」(増田渉訳),「模糊とした」(高橋和己訳),「ぼうっとかすんだ」(松枝茂夫訳),「かすんだ」(駒田信二訳),「ぼんやりかすんだ」(丸山昇訳)などと,本来の語義に忠実に訳そうとしています。

 じつは「模糊」という表現は,このあと船から見える故郷の山や家々がますます遠ざかっていく場面でも繰り返されています。

 教科書の竹内好訳で言うと,「すいか畑の小英雄の面影は、元は鮮明このうえなかったのが、今では急にぼんやりしてしまった。」という部分です。

 外の景色は「暮れてゆく」のではなく,「ぼんやりとかすんでいく」のであり,それが「すいか畑の小英雄の面影」とオーバーラップすることを,中国語の原文では「模糊」という表現の繰り返しによって伝えていることになります。

 教科書の竹内好訳では,このあたりの機微が伝わらなくなってしまっています。


 もう一つ,翻訳上の問題点を,これも丁秋娜さんの指摘を参考に書き留めておきます。

 先ほどの引用の最後の一文は,中国語の原文では中国語の原文では「我和母親也都有些惘然。」となっています。
 この部分が今までどのように翻訳されてきたか,丁秋娜さんの論文からの孫引きで比べてみましょう。

 母と私はそれに気をとられて(佐藤春夫訳)
 私どもは薄れ睡くなって来た。(井上紅梅訳)
 私も、母も、やや悵然となった。(竹内好訳・旧訳)
 私と母とは何となくうら悲しい気持ちであった(増田渉訳)
 私と母もいささかうら悲しくなり(橋和巳訳)
 私も母も、これにはいささかあっけにとられた。(松枝茂夫訳)
 わたしも母もいささかものがなしくなり(駒田信二訳)
 私も母もいくらかしゅんとした。(丸山昇訳)

 原文の「惘然」は,「何かを失った様子。がっかりしたさま。満足しないさま」を表す語です。

 教科書の竹内好訳を読むと,「帰る」可能性があることを前提にした幼いホンルの無邪気な言葉の痛ましさのようなものが強く感じられます。

 仲良く遊びたいと願う子どもたちの無邪気な願いを踏みにじるような現実に,大人である「私も、私の母も」加担しているわけで,そのことに対する強い罪悪感のようなものに「胸をつかれた」という感じです。

 ところが,直訳的に「私も私の母も何かを失ったようながっかりした気持ちになって満足できなかった。」などと訳すと,かなりニュアンスが異なってきます。

 ホンルの痛ましさよりもむしろ,「私」や「私の母」が失ったものへと意識が振り向けられている印象で,大人の側の喪失感が「がっかり」という語に表出されている印象です。

 これまで私が定番教材について考えるときにしばしば言及してきた「喪失感」「罪障感」の問題が,翻訳の問題の中にこのような形で現れているわけです。

 とても興味深いです。

(もうすぐ)70万ヒット記念!―自己愛的な2013年ベスト3

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70万ヒットに感謝!

 今年はこれまでに,転載したものを除き,27本の記事をアップしました。
 1月―1本,2月―4本,3月―3本,4月―3本,5月―1本,6月―1本,
 7月―2本,8月―2本,9月―3本,10月―3本,11月―1本,12月―3本
 (※この記事を含む)
 ブログを始めた頃に比べると,ずいぶんペースが落ちていることを痛感しますが,
 なんとかここまで続けて来ることができました。
 いつも読んで下さっている方,ときどき来て下さっている方,
 ふと思い出して訪れて下さっている方,たまたま来てしまった方,
 通りすぎただけの方,そしてほぼ毎日アクセスした自分…

 皆々様に感謝申し上げます。

 どうもありがとうございました。

2013年の“自己ベスト3”発表

 まもなく70万ヒットを達成するという節目の時(現在69万9721)にあたり,
 今年アップした記事の中から,“自己ベスト3”を選んでみます。

 皆さんのコメントの中の印象的な発言やフレーズも,私なりに拾い集めてみました。

 皆さんが面白いと思った記事はないかもしれません。
 基本的に自己愛的な記事です。
 それから,コメントの紹介は,どうしても恣意的になってしまう部分があります。

 記念記事ということで,どうぞお見逃し下さい<(_ _)>



 桜宮高校の事件に触発されて書いた記事です。たくさんのコメントを頂きました。(以下,一部抜粋)
・今教育と言うものの内実が崩壊してしまって、『いじめ』が『教育』の代わりをなしている(テハヌーさん)

・僕らは死という忌避すべき未来に対して恐怖と自己欺瞞的な心理操作を行って毎日暮らしています(ごくろう君さん)

・いじめや体罰について言及するマスコミには自分たちが孕んでいるハラスメント的なるものの認識がなく、ハラスメントを助長・増幅させている(リリカさん)

・とても納得のいくものでした。しかも読みやすかったです!(にこにこ君さん)

・最近ではささいなことで訴訟問題になったり、私たちのころには笑って許されてたことが一発犯罪者になってしまうご時世(不気味な泡さん)
 いま読み返しても,皆さんのコメントを通じて,改めていろいろなことに気付かされます。



 はじめて夫婦50割引で観た映画のレビューです。
・勇気ある撤退なくしてサバイブはできない(テハヌーさん)

・「Over my dead body! という捨て台詞は含蓄が深い(Loulouさん)

・マルクスを読まないと共産主義じゃないという発想がすでに終わってる(不気味な泡さん)
 コメントを下さった皆さんの考え方に大いに触発されました。



 ラジオで聞いた話をもとに書いた記事です。
・有機物を摂取せねば生きていけない矛盾した生き物を否定することはできない(駒のご隠居さん)

・生活を潤すための資本主義・経済最優先主義が生み出した贅沢品…(Dr.Noさん)

・資生堂のモニターを1年間したことがあります。会社としては難しい選択でしょうね(ちゃいさん)

・動物実験を止めて商品パッケージにデフォルメされたウサギがニコッて笑っている絵を使い始めたら面白い…(ごくろう君さん)

・改めて書くことで記憶の裏打ちをするのですね(不気味な泡さん)
 記念記事にこういう話題はどうかとも思ったのですが,きちんと読んでコメントを下さった皆さんに救われました。



 こうして振り返ってみて思うのは,私の記事よりもむしろ皆さんのコメントこそが“ベスト”だということです。

 改めてお礼申し上げます。

 どうもありがとうございました。


 それにしても今年は,「文学」を真っ正面から取り上げた記事が少なかったです。

 来年は,原点に戻り,「文学」についての与太話・四方山話を多くアップします。

作家と文学賞―文学の価値を創出するシステム

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 ある研究者の論文を専門を同じくする研究者が値踏みして採否を決める「査読」というシステムについて、再検討が必要だという声を耳にすることがある。たとえば「研究者が研究者の論文を評価するということ」(2007年5月『日本近代文学』第76集)で宗像和重は、「「外部評価」の必要性が喧伝されている時代」であるにも関わらず、文学研究誌において「閉じられた『内部評価』が維持され続け」ていることに疑念を差し挟んでいる。論文の価値を誰がどのような尺度によって測るのか、また、査読の客観性や公平性をどのように担保するのかという問題に通底する疑念である。

 ほとんどの文学研究は、新しい価値を付加した商品を流通させて大きな利潤を生み出すような性質のものではないから、社会的な影響力の大小や商品価値の多寡によって論文を評価することは困難である。つまり、そもそも「外部評価」になじまない研究領域であり、「研究を評価することについての私見」(2007年11月『日本近代文学』第77集)で小林幸夫が言うように、「近代文学研究の成果としての論文」「研究の歴史や研究の現状において批評・評価」することは「研究に身を置いている者でないとできない」ものなのだ。

 「査読」とはピア・レビュー(peer review)であり、仲間内の相互評価システムに他ならない。

 このような状況に対する苛立ちが、かつての石原千秋をして「市場原理の導入」によって「商品価値のない論文や発表には退場してもらうのがいい」(2001年5月『日本近代文学』第64集)いう暴論に走らせたのだろう。

 しかし一方で、たった十人しか専門の研究者がいない小さな学会があったとしたら、機関誌の査読に客観性や公平性を期待するのが困難であることも確かだ。科研費を得ているかどうかとか、被引用回数などの「外部評価」を導入することはできるが、たった十人しか専門家がいない研究分野についての科研費の審査や、仲間内の被引用回数が適切な「外部評価」と言えるかどうかは甚だ疑わしい。十人が百人や千人に増えたとしても、同じような疑念が生じることは原理的に避けられない。市場原理の導入が暴論だとすれば、文学研究論文の価値評価の妥当性をどのように担保することができるのだろうか。これはなかなかの難題である。

 結局のところ、価値を生み出す根拠に見いだされるのは、「査読あり」の研究誌に掲載されたという事実であり、「価値があると見なされているという現実が価値を担保する」というウロボロス的な構造なのかもしれない。

 かくのごとき研究論文の価値についての難題は、研究対象である文学の価値をいかに創出するかという問題においても同じように見いだし得るはずである。第148回芥川賞(平成24年度下半期)を受賞した黒田夏子「abさんご」(2012年9月『早稲田文学』)のような小説の価値はおそらく、一般読者による「外部評価」的なまなざしによってではなく、同じく小説の書き手である「作家」(選考委員)による「内部評価」的なまなざしによってこそ高く評価されうるのだ。

 ところが文学的な価値を創出するはずの文学賞の選考は、一方で「作家」の商品価値のような市場原理的な尺度の影響を受けざるを得ない。もちろん「abさんご」の場合、多年にわたる研鑽が結晶した小説表現が至芸として評価されたということもあるのだろう。しかし、ひらがなを多用した横書きの小説表現という一般読者にもわかりやすい特徴と、75歳という年齢での最年長受賞という話題性が先行して『文藝春秋』の売り上げを伸ばしたという側面があることも否めないのだ。

 そもそも文学賞は、文学というものが成立し、書物が商品価値を持って流通し始めるという現実を前提として生まれたものである。紅野謙介『投機としての文学―活字・懸賞・メディア』(新曜社 2003年3月)の中で明らかにしたように、近代文学の草創期に自分の原稿が活字になることを欲望する人々が参画する投書雑誌のような場が生まれ、金銭的な利得だけではなく文学市場に参入する「作家」の資格を認定する場としても機能する懸賞小説のような制度が出現した。

 さらに、資格試験をパスして自分の原稿を活字化する権利を得た「作家」は、文学市場において固有名として流通し、活字に対する欲望を抱えた読者層にとって羨望の的となっていく。すなわち文学は、「投機と冒険の対象となった」のである(前掲書「はしがき」)。

 やがて大衆社会の出現にともなって文学市場が量的に拡大し、個々の文学の卓越性が商品価値によって評価されるという事態が生じた。また、新人作家が次々に生まれる状況の中で、新たな作品を生み出せなくなった物故作家の価値が、相対的に切り下げられるという状況をも招いた。そのようなときに、芥川龍之介直木三十五のような固有名を冠して物故作家の業績を顕彰するとともに、新人作家を発掘し、文学市場へのイニシエーションとしての機能をもあわせ持つ文学賞が生まれたのだ。

 文学賞は、商品価値とは異なる文学的な価値を創出し、文学市場において個々の作家が自らの卓越性を顕示することを可能にした。また、授賞する側の出版社や選考する側の「作家」の権威をも再帰的に創出した。

 ただし、これらの構造のすべてが、文学市場に回収されざるを得なかったということが、近代文学の宿命であったことも見落とすべきではない。商品価値とは異なる価値を創出する装置として誕生したかに見える文学賞は、はじめから文学市場の中に根こそぎ組み込まれてしまっていたのである。

 眉目麗しい女性作家のダブル受賞と最年少受賞記録更新で注目を集めた第130回芥川賞(平成5年度下半期)や、著名な仏文学者を父に持つ才媛に対峙する中高年フリーターの露悪的なキャラクターが共感を呼んだ第144回芥川賞(平成22年度下半期)などが、受賞作掲載誌である『文藝春秋』の売り上げを大きく伸ばしたという現実は、文学賞が文学市場を拡大してくれるという期待に見事に応えた実例である。

 こうした先例がさらに文学賞のありようを縛っていくことになるであろうことは想像に難くない。キャラが立つ話題性のある作家に賞を与えてダブル受賞で盛り上げるというビジネスモデルがいつまで通用するのかはわからないが、文学市場が多品種少量生産の時代にシフトし、書物の流通のあり方が激変しているにも関わらず、受賞作が文芸大手五誌の掲載作ばかりになっている昨今の芥川賞を考えると、およそ50%だった視聴率が十数%に下降している日本レコード大賞と同じ程度に存在感が霞むのも、そう遠い将来ではないように思えてくる。

 いや、もしかしたらすでに芥川賞作家は、流行語大賞の発表とともに一発屋の烙印を押されては消費されていく芸人のような存在になってしまっているのかもしれない。大森望豊崎由美による『文学賞メッタ斬り!』シリーズ(PARCO出版 2004年~)や小谷野敦の『文学賞の光と影』(青土社 2012年7月)、川口則弘『芥川賞物語』(バジリコ 2013年1月)のような著作の刊行が相次いでいるのも、文学的価値と商品価値のねじれを内に抱えたまま延命を続けてきた文学賞が、近代文学を支えてきたプラットフォームの制度疲労とともに変質を余儀なくされているという現実の反映だろう。

 付言しておけば、文学懸賞が植民地における「日本語文学」の書き手にどのように「中央文壇」への欲望を喚起したか、文学懸賞が生み出した「植民地文壇」がどのように変容を余儀なくされたのかを論じた和泉司『日本統治期台湾と帝国の〈文壇〉―〈文学懸賞〉がつくる〈日本語文学〉』(ひつじ書房 2012年2月)のような仕事が投げかけている問題も十分検討に値する。初期の芥川賞に帝国主義的な地政学を反映するかのような受賞作が散見されることを踏まえれば、中国人作家の楊逸による「時が滲む朝」(2008年6月『文學界』)に第139回芥川賞(平成20年度上半期)が与えられたという出来事には、話題作りということだけでは済まない問題が孕まれていると考えるべきだろう。

 このように考えてくると、再帰的な関係性を孕みながら価値を創出し続けてきた作家と文学賞について検討を加えていくことが、文学の価値とは何かというラディカルな問いを伏在させながら近代文学そのものを問い直していくことにも繋がる興味深い課題であることは明らかだ。こうした問題に十人の論者が挑んだ『新人賞・可視化される〈作家権〉』(2004年10月『近代文学合同研究会論集』第1号)のような研究が、より多くの研究者によって展開されていくことを期待したい。




※『昭和文学研究』第67集(2013年9月)掲載の「研究展望 作家と文学賞―文学の価値はいかに創出されるのか」草稿(2013年3月31日脱稿)

大滝詠一の死を悼む―「日本語ロック論争とボクシングをする詩人たち」より

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 昨日,12月30日の午後5時半ごろ,大滝詠一が亡くなりました。

 享年65歳。

 リンゴをかじっているときに倒れ,119番通報で救急搬送する際には既に心肺停止状態だったそうです。

 年の瀬の訃報。昭和も20世紀もどんどん遠ざかる感じで,寂しい限りです。

 日本語ロックの歴史,Jポップの歴史を語る上で欠かすことのできない偉大なアーティストの死を悼み,「大滝詠一と内田裕也」という記事を再掲します。

 歴史の審判はもちろん,大滝詠一に軍配をあげたわけで,ソングライターとしての活躍はもちろんのこと,CMやテレビ番組とのタイアップやプロデューサーとしての活躍を含め,こんな場所では語り尽くせぬくらい多くの足跡を残しました。

 心からご冥福をお祈り申し上げます。


 日本語ロック論争とは?

 日本語の歌詞がファンキーな音楽に乗せて歌われたり,日本語によるラップが次々にヒットしたり,日本語によるロックの可能性が真剣に論じていた時代から考えると,信じられないような状況が目の前にあります。

 「日本語ロック論争」(別名「はっぴいえんど論争」)と言っても知らない方が多いでしょうけれど,1970年代初頭の日本で,「ロックは日本語で歌うべきか,はたまた英語で歌うべきか」ということが真剣に議論されていました。(フリー百科事典『ウィキペディア』/「日本語ロック論争」へ

 まったく今から考えると,冗談のような論争ですが,「小学生に英語教育は果たして有効か」という問題と同じぐらいに真剣に議論されていたのです。

 論争の発端は,『新宿プレイマップ』1970年10月号です。当時フラワー・トラベリン・バンドを率いていた内田裕也と,はっぴいえんどの大滝詠一が,「ニューロック」をテーマにした座談会の中で鋭く対立しました。

▽久民(LICK・UP・PLAYER)
「ボクなんか見てて思うのは,使う言葉が日本語でありながらビートは向うのまんまということの不釣合のようなもの。つまり,日本語の歌というのは,やっぱり浪曲なんですよ。知らず知らずのうちに身につけちゃってる。(中略)もう一度,日本語の体系とリズム,日本人の体質という点を考えてもいいんじゃないかと思うけど,裕也なんかどうですか。」

▽内田裕也(フラワー・トラベリン・バンド)
「前に日本語でやった時があるんですよ。やっぱり歌う方としては“のらない”というんですよね。(中略)もし日本語で唱うより,英語で唱って言葉が判らなくても“のって”説得できれば,その方がいいと思いますね。それにフォークと違ってロックはメッセージじゃないし,言葉で“戦争反対,愛こそ全て”と云うんじゃなくて若い連中がそこにいてそこにロックがあれば,何か判りあっちゃうと思うし,言葉は重要だと思うけど,ボクはそんなにこだわらない。でも大滝君達が日本語でやるというのなら成功してほしいと思う。」

▽大滝詠一(はっぴいえんど)
「ボクは別にプロテストのために日本語をやっているんじゃないんです。何か,日本でロックをやるからには,それをいかに土着させるか長い目で見ようというのが出発点なんです。ボクだって,ロックをやるのに日本という国は向いていないと思う。(中略)でも,日本でやるというのなら,日本の聴衆を相手にしなくちゃならないわけで,そこに日本語という問題が出てくるんです。」

 あの内田裕也に対して大滝詠一は,「でも成功したいという理由でコピーばっかりやってるというのは逃げ口上じゃないですか」なんていう挑発的な発言をしてしまっています。

 内田裕也は「日本語のオリジナルが好きな奴もいるし、向うのコピーの好きな奴もいるし、アナタはコピーを馬鹿にした言い方をするけど、アナタは自分のバンドよりうまくコピー出来る自信あるわけ?」っていう感じで切り返しているんですが,もう完全にキレちゃってます。

 この座談会で飛び出した問題は,『ニュー・ミュージック・マガジン』1971年5月号の座談会「日本のロック情況はどこまで来たか」に引き継がれることになります。

 どうやら1970年当時は,日本人にとって日本語のロックは「のらない」ものだったようなのです。日本語で楽曲作りをしていた大滝詠一ですら,「ロックをやるのに日本という国は向いていない」と言っているぐらいですから。

 日本人の音楽耳は変わったか?

 はっぴいえんどのアルバム「風街ろまん」を聴くと,ロックというよりフォークソングみたいな曲も含まれているのですが,どの曲も「のらない」という感じはあまり受けません。
 日本語を洋楽的なメロディーやリズムに乗せていることに対する違和感はあまりありません。

 たとえば「はいからはくち」などは,鈴木茂のギターも細野晴臣も最高に格好良くて,ファンキーなアレンジといい,松本隆の詞といい,いま聴いてもまったく古びていません。“日本語ロック史上に残る名曲”と言っていいと思います。

 でもきっと,演歌的な音階やリズムに慣れた1970年代の日本人の耳には,どこか奇妙な音楽に聞こえたのではないかと思います。それが「新しさ」でもあったわけでしょうけれど。

 たとえばラップ音楽も,佐野元春が1984年にリリースしたアルバム『VISITORS』によって日本の音楽シーンに本格的に持ち込まれるわけですが,私の感覚では,90年代前半ぐらいまでの日本語のラップは聴けたもんじゃありませんでした。これも,作り手の問題であると同時に,聴く側の耳の問題もあるのではないかと思うわけです。

 もちろん佐野元春の「コンプリケーション・シェイクダウン」なんかは最高に格好良くて,日本語ラップとしては驚異的な完成度の高さです。でも,決め所では英語が使われていて,日本語部分は柔軟性を持つ耳を持った若者以外には奇妙な歌に聞こえたはずです。

 90年代になっても同じことです。紅白歌合戦が視聴率の点で苦戦していたことからもわかるように,演歌耳の日本人にとっては,安室奈美恵の歌すら聴き取ることが困難だったわけです。


新年に思う若者の罪悪感―震災記(19)

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新年のめでたさ

 あけましておめでとうございます!

 今年もよろしくお願い申し上げます。

 …と言いますけど,何がめでたいのかというと,皆で揃って齢を重ねたからです。

 数え年が1つ増えるからです。

 つまりは,みんなでいっしょにお誕生祝いをしているようなものなのですよね。

 でも,満年齢が一般化してずいぶん経っていますから,そういう感覚は薄れてきています。

 めでたいのは「正月」や「新しい年を迎えたこと」であり,皆が齢を重ねたということを意識することはなくなっているのではないでしょうか。

 そして,皆で1年を無事に過ごして齢を重ねたことを喜ぶ感覚は,この1年のあいだに亡くなってしまった方々の無念に思いを馳せることと表裏一体のものであるとも言えます。

 ということは,新年にあたって死者のことを想起するという感覚も薄れているかもしれません。

 喪中という慣習は残っていますが,少しずつ形骸化し始めているのではないでしょうか。



 生きることは生き延びること,生き残ることであり,そうである以上,心の中に広義のサバイバーズ・ギルトを堆積させていくプロセスであると言えます。

 少しずつ。

 幸せに生きていられる自分という存在に対する意識が,どこかで罪悪感や後ろめたさのようなものに繋がっていて,それがまた自分が生きることを支えている…。

 今年は,そのような思いを心に刻みながら,「あけましておめでとうございます!」と申し上げることにいたします。

“さとり世代”悪玉論

 暮れに見て,とても引っかかるものがあった番組を,年が明けてからもう一度NHKオンデマンドで見直しました。

 ためしてガッテン小野文恵さん(1968年生まれ)がキャスターを務めた「週刊ニュース深読み」「欲しいものはなに?景気のカギは若者にあり」(12/21放送)です。

 車やブランド服,海外旅行など,かつて若者たちが中核をになっていた消費財が軒並み売れ行き不振になっていて,それが景気回復の妨げになっているという,「さとり世代悪玉論」とも言うべき主張が番組の出発点になっていました。

 桂文珍(1948年生まれ),松本明子(1966年生まれ),牛窪恵(1968年生まれ),原田曜平(1977年生まれ)など,団塊世代から団塊ジュニア世代ぐらいまでのオジサン・オバサン世代の出演者が,一方的に若者バッシングを繰り広げていると言っても過言ではないぐらいの,かなり偏った番組になってしまっていました。

 放送中に寄せられたツイートは2500以上で,当然のことながら,そのほとんどは番組の内容を批判するものです。

 炎上マーケティングではないかというツイートが複数寄せられるぐらいにツッコミどころ満載の放送内容だったのですが,その一方で考えさせられる問題がたっぷり詰まった,思考トレーニングの良質な素材とも言える番組でした。

 書いていくときりがないくらいなのですが,とりあえず「罪悪感」という問題に絞って,問題点を書き留めておきます。

物を買うことに対する罪悪感

 番組の後半で特集が始まってまもなく,NHKの中山準之助アナウンサーが若者が物を買えなくなっている要因をプレゼンします。

 中山アナによると,若者が物を買わなくなっている理由は,「情報疲れ」「罪悪感」「先送り」の3つだと言います。

 ここでは,「情報疲れ」と「先送り」についての説明は省いて,「罪悪感」についてのスタジオでのやり取りのさわりを紹介しておきます。

 同時に複数の出演者が発言していることもあり,聞こえてくる音声のすべてを忠実に文字にしているわけではなくて,私が自分の考えを記していく上で重要な発話に焦点を当てる形で紹介することをあらかじめお断りしておきます。

中山アナ「NHKのアンケートでも、物を買う時になんか申し訳ない気持ちが起きるという風に答えた若者の割合というのがじつに6割近くにも…」
松本明子「えーーーっ! 涙ぐましい…」
小野キャスター「誰に?誰に罪悪感ですか?」
中山アナ「ちょっとそこは若者たちに聞いてみないと…」
原田曜平「こんなに使っちゃっていいのかなぁという…」
松本明子「自分?」
牛窪恵「バカな自分を」
中山アナ「こんなに使っちゃったっていう点で、中には1万円を超えると、もう罪悪感生まれるっていうふうに答える方もいるんですね」
桂文珍「ガハハハハ…それで罪悪感出るんやったら、僕なんか何度も死なないといけないですね」
スタジオ一同「アハハハハ」
牛窪恵「私とか、原田さんも、今年“さとり世代”ということを言っているんですけど、やっぱり、ゆとり世代が悟っちゃってて、買っても無駄になるな~とか、あまり使わないんじゃないかとか、いろんなことを考えちゃうんですよね」
桂文珍「そりゃもう、なまざとりですからねぇ」
牛窪恵「へへへへへ…」

 物を買うことに罪悪感を覚えるという若者を,団塊世代やバブル世代のオジサン・オバサンが嘲笑するという,何とも後味の悪い場面です。

 すでに十分すぎるくらいにオジサンである新人類世代の私にとって意外だったのは,スタジオにいるオジサン・オバサンたちが,「物を買う時になんか申し訳ない気持ちが起きる」という若者たちにまったく共感できないばかりか,そういう罪悪感を想像することすらできない様子であったことです。

 番組に寄せられているツイートにも,若者たちの罪悪感を嘲笑する出演者たちと同じ立場であると思われるものがちらほら見かけられました。

金を使うのに罪悪感とか意味が不明だ。 #nhk_fukayomi
(zuo3_ 2013-12-21 08:58:16)

#nhk_fukayomi
は?罪悪感?
ないわwww
(connect029 2013-12-21 09:02:21)

 年齢はわかりませんが,必ずしも中高年のツイートとは限らず,特に引用の2つ目ツイートは,「(若者に罪悪感とかって言ってるけど,俺には)ないわwww」というニュアンスであると考えられ,若者からのツイートである可能性が高いです。

 当たり前の話ですが,物を買う時に罪悪感を感じるという気持ちを理解できないのは中高年に限った話ではないわけです。

 逆に罪悪感という話に共感する次のようなツイートも,必ずしも若者のものばかりではないのかもしれません。

20代の女性。私も貯蓄に回します!お金を使う事に罪悪感が出て、面倒になります。 #nhk_fukayomi
(7forestCherry 2013-12-21 08:56:07)

情報疲れ、罪悪感、先送り、ぜんぶあてはまるわ(笑) #nhk_fukayomi
(mamamayaaki 2013-12-21 08:57:55)

@nhk_fukayomi 10代男です
自分も何か買うと何故か罪悪感を感じます。やはり若者のそのような感情も景気に左右されているんではないでしょうか
(1325Nm 2013-12-21 09:00:45)

当たり前だろおおおおおおお買って捨てるのになぜ罪悪感がないのだああああ #nhk_fukayomi
(Hyuga_yo 2013-12-21 09:06:44)

ゴミに成るのが見えてるので無駄な消費に罪悪感を感じるんですよ。#nhk_fukayomi
(tokyohippy 2013-12-21 09:10:00)
 

 世界中にどれだけの不幸があり,どれだけ多くの人々が飢えや貧困に苦しんでいるのかという現実を少しでも意識していれば,この国で自分の欲望を満たすために消費することに対して罪悪感を覚えるというのはごく自然な感情だと私は思います。

 就活の勝ち組で一流企業に正社員で就職できたような若者はもちろんのこと,派遣労働で食いつないでいたり,ブラック企業で酷使されていたり,低所得にあえいでいる若者であったとしても,相対的に恵まれている自分の立場をかえりみて,「無駄な消費」をすることに罪悪感を覚えるということは,十分にあり得ることです。

 もちろん「自分が消費をやめたって,世界の飢えや貧困がなくなるわけではないし…」「平穏に生きることができる人間は,そういう幸せを享受すべきだ」「より多くの人々が豊かになるためには,自分たちが積極的に消費して経済を活性化することが必要だ」「私は私なりに,私の家族とともに,私の人生をまっとうするしかないじゃないか」等々,さまざまな理由を用意しながら消費社会を生きる自分を容認する人もいるでしょう。(私もそうです)

 「そんなことはいちいち気にしてられない(=バカバカしい)」という人もいるでしょう。

 しかしそういう人たちも,「そんなこと」が存在するということは知っているわけです。

 しかも,東日本大震災のような出来事が起こったわけですから,罪悪感や後ろめたさという感情は,日常的に意識していないとしても,多くの人々の心のどこかに必ず潜在しているものではないかと思っていました。

 ところが,スタジオに出演していた人たちが,そういうこと感情をまったく想像できないでいる様子であったということが,私にとっては衝撃だったのでした。

(つづく)

つぶやきネットサービスとのおつきあい

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 ふと思い立ち2年ほど前につぶやき始めました。

 でも,どういうことをつぶやけばいいのかよくわからず,短い文章表現を楽しむ気持ちで,のんびりと散発的につぶやいています。

 過去のつぶやきの中から,いくつかコピペしてみます。
 
アクセル踏み込んでガンガン飛ばすぜんぜんエコじゃないプリウスが増えている気がする。

吉野家で昼食。ホール担当は、チャンさん、マリリンさん、村山さん。国際色豊か。「いらっさぁいあせー!」というビミョーにだらしない発音がいかにも吉野家らしい空気を作っている。就労条件とかが気になるが、とりあえず見事な日本語である(^。^)

大本山総持寺。高校生と一緒に、真夏の座禅・写経だん!
老師の法話から。
「座禅をして、なんになる?」
「……」
「なんにもならないんだよ」
「ん?」
「自分が自分になるだけだ」
「ううむ…」

ダンシング・クイーンのサビは♪ You can dance! You can dance! だと思い込んでいた。中学の時から36年間。。。
♪You can dance you can jive だったと今日気づいた。
ずぅーっと間違った鼻歌を歌ってたのかぁ_| ̄|○

某私立中学1年男子の過半数が、サザエさんやドラえもんをみたことがないらしい。ホントだろうか。教材にイラストが出てくると、「これは、タラちゃんというキャラクターで…」などと説明しなくてはいけないという。早生まれは21世紀少年。もはや中1はエイリアン世代?

実際に自分で触れたこともないまま、通りいっぺんの理解で、少なからぬ人たちが夢中になっているものについて、「くだらない」「低レベル」などと否定的に評価し、そのことをことさらに吹聴する人がいる。たとえばAKBについて。たとえば半沢直樹について。そういう物言いはヘイトスピーチと地続き。

“時事芸人”のプチ鹿島によると、土下座流行の背景には公開処刑願望があるという。土下座の起源は魏志倭人伝の時代らしいが、NHKのクロ現によると、国語辞典で土下座に謝罪の意味が登場するのは、1970年代からだとか。だとすると、玉音放送の際の皇居前広場の映像なんかが影響している?

Facebookで顔写真なしとか偽名とか、なんで?と不思議だったけど、神に対していつでもどこでも私は私という一神教的な“個人”(individual)を持たず、“分人”(dividual)として生きるニッポン人にとって、社会関係資本をフラットに並べることの方が不自然なのかも。

青空文庫内を「かわゆい」で検索したら、二葉亭四迷,幸田露伴,泉鏡花,伊藤左千夫,倉田百三,岡本かの子,宮本百合子がヒット!「かわゆい」の文学史が書けそう。
宮本百合子「道標」から。
あのハガキをよんだとき、伸子はそういう保の心をどんなに近く自分の胸に抱きしめただろう。かわゆい保。

青空文庫内を「いやん」で検索してみた。
※三好十郎「おスミの持参金」より。
「ありがたう。君と僕とはまたいとこで小さい頃から仲が好かつたな。ね! ねえ! さうだら……ねえ!」
接吻か何かしたらしい。
(音楽に依るストレツス)
「いやん! ウフン」
↑近代文学史上最初の用例?

ダイヤモンド志賀のエレベーターに早大ベルスキークラブの女子2人組。1人がごきげんで歌い出す。
「♩みやこのせいほ〜く、なんとか〜のもりに〜。あれぇ、何だっけ?」
私「早稲田、です」
2人組爆笑(=´∀`)人(´∀`=)
いや、いちばん肝心なとこを…爆笑したいのはこっちですけど。

 全部読んで下さった方,どうもありがとうございます。

 面白いと思って頂けるものがあったでしょうか?

 情報発信の手段が増えて,つながりも増えて,受信できる情報の量も増えて,いろいろ楽しめる時代になりましたが,やり過ぎも問題ですよね。

 つぶやきネットサービスとのおつきあい,皆さんはどうしていますか?

チョーヤ梅酒100周年×村上春樹の誕生日=梅崎春生の「桜島」再読?

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1914年から100年

 昨年は岩波書店上智大学トンボ鉛筆救心製薬ハウス食品などが創立100周年という節目の年を迎えました。

 2014年の今年は,宝塚歌劇団東京駅平凡社北里研究所が100周年を迎えます。

 それから,横浜翠嵐高等学校チョーヤ梅酒甘栗太郎なども…。

 100年前の1914年というと,私の頭の中では「行く人死んだ一次大戦」第一次世界大戦が勃発した年として記憶されていますが,当然のことながらさまざまな事柄が始まった年でもあるわけです。

村上春樹の誕生日

 今日,1月12日は,村上春樹氏の誕生日です。

 1949年生まれなので満65歳になります。

 女性登山家(?)のイモトアヤコさん,潮騒のメモリーズの橋本愛ちゃんも,今日が誕生日です。

 イモトさんが1986年生まれで28歳,橋本愛ちゃんは1996年生まれなので18歳になりました。

 もちろんその他にも,元大関若島津の松ヶ根親方(1957年生)や漫画家の井上雄彦さん(1967年生)をはじめ,日本中世界中で多くの人が1月12日にこの世に生まれました。

 皆さん,おめでとうございます!

100年前の1月12日

 第一次世界大戦が始まった100年前の1914年

 そして村上春樹氏や橋本愛ちゃんが生まれた1月12日

 2つの数字が交差する1914年1月12日。

 すなわち100年前の今日は,松ヶ根親方や井上雄彦さんのふるさと鹿児島県の桜島で大噴火が起きた日です。

 そこで(?),戦後文学屈指の名作「桜島」を再読してみることにします。


地続きの島「桜島」


 じつは桜島は大隅半島と地続きになっていて,島とは言えません。


 噴煙を上げている御岳(桜島岳)の写真の多くは,まるで桜島が錦江湾のただなかにあるように見えるのですが,じつは見えないところで地続きになっているのです。


 つまり,桜島は島としては偽物です。


 今から100年前の大噴火によって東側の海が埋め立てられ,島としての命脈を絶たれました。


 ですから,1946年(昭和21)に発表された梅崎春生のデビュー作「桜島」の舞台も,偽物の島なのです。

 そして,「地続きの島」という紛い物が舞台であるという設定の中に,小説「桜島」のテーマが埋め込まれています。

 そのことに,およそ四半世紀ぶりに戦後文学屈指の名作である梅崎春生の「桜島」を読み直して,はじめて気がつきました。


兵隊とは何者か


 生物学者でもあった昭和天皇が「雑草という草はない」と言ったのは有名な話です。

 「けだし名言」という感じなのですが,私たちはついつい「雑草」のような概念で現実を大ざっぱに捉えてわかったような気持ちになってしまいがちです。

 すべての草の名前や特徴をつぶさに見分けるということはなかなかできることではありませんが,ナズナ・ハコベ・ヨモギ・ホトケノザ…などなど,よく目にすることができる野草の名前を知っているだけで,今まで「雑草」としか認識できなかった草地が豊かな表情を見せていることに気付くはずです。

 小説「桜島」は,これまで「軍隊物」とか「軍隊小説」と呼ばれてきました。

 でも「軍隊という軍はない」はずです。

 ですから,小説「桜島」に描かれている「軍隊」がどのような軍隊であるのかを見極めなければ,そこに描かれている「戦争」がどのような戦争なのかをよりよく知ることはできません。

 オジサンにとって大島優子高橋みなみを区別することは容易なことではありませんが,せめてAKB48NMB48が別のグループであることぐらいは知っておきたいものです。

 同じように,ひと口に「軍隊」とは言っても,「陸軍」「海軍」とが別物であるということぐらいは知っておいてよいはずです。

 たったそれだけのことを意識するだけで,小説「桜島」の読み方は劇的に変わります。

 でも今までそういうことを問題にする人はいませんでした。


偽物の海軍で迎えた敗戦


 主人公「私」(=村上)の階級は「兵曹」です。

 陸上で勤務していますが、「兵曹」というのは海軍の下士官です。

 「私」すなわち村上兵曹が所属している部隊も海軍です。

 言うまでもなく「帝国海軍」の軍人にとっての本来的な任務は,艦船に乗務することです。

 もちろん帝国海軍には航空隊もありましたし,陸上勤務の部隊もありました。

 しかし「海軍」を名乗るからには,艦船に乗務するのが本来のあり方です。

 にもかかわらず村上兵曹は,桜島の中腹にある暗号室での任務を強いられます。

 もちろんこれは,敗色濃厚の昭和20年という時点において「帝国海軍」が壊滅状態であり,村上兵曹が乗務すべき艦船がほとんどなかったという事情によるものです。

 吉良兵曹長が狂気をはらんでいるように見えるのも,連合艦隊の一員として戦うことができず,斜面に掘られた横穴に身をひそめて時折上空を通りすぎるアメリカ軍の飛行機を監視するという非本来的な任務を強いられているのです。

 たとえば,「彼にとって唯一の世界である海軍が、沖縄の戦終り、既に潰滅したことによるいらいらした心情」というような村上兵曹の言葉には,吉良兵曹長が偽物の島である桜島において「マニヤックな眼」の持ち主へと変貌せざるを得なかった理由が示唆されています。

 自分本来のあり方から疎外された状況を生きていることに対する苦い自覚が,桜島にいる海軍兵たちの心理を損なっていると思われます。

 いや少なくとも,吉良兵曹長の「いらいらした心情」が,本来なすべき海軍兵としての任務から疎外された状況を生きていることによるものであると村上兵曹は了解しています。

 偽物の島で偽物の任務を強いられる偽物の海軍にいる「私」。

 このようなことを考えながら,鮮烈な印象を残す小説「桜島」のラストシーンを読み直したとき,敗戦によって任務を解かれ,御岳の天上の美しさを横目で見ながら坂道を下り,敗戦後の生活世界へと帰還していく「私」には,依然として本来的な生に立ち戻ることができない根源的な偽物性が,存在そのものの中に複雑で微妙な傷痕として刻み込まれているのではないかと感じました。

 ひとくちに「軍隊」とか「軍人」とかと言っても,その内実はさまざまで,一人一人が体験した「戦争」は,戦争を知らない世代の私たちが考えるよりもずっとずっと多様で,そういう戦争を生きた人たちの心には容易には想像できないような複雑で微妙な陰影があるのではないか…。

 そんな当たり前のことに気づかされる「桜島」再読でありました。


川島幸希著『国語教科書の闇』と定番教材の誕生

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川島幸希著『国語教科書の闇』

 昨夏,見事な筆致で宛名書きされた大きな茶封筒が届きました。

 送り主は川島幸希さん

 封筒の中には,理事長・学長を務める秀明大学で開催された「芥川龍之介展」のパンフレットとともに,新潮新書から御著書が出ることとを記したお手紙が入っていました。

 「学恩云々…」というフレーズが含まれた文面には,新しく出る御著書が,サバイバーズ・ギルト(生き残りの罪障感)という観点から国語教科書の定番教材について論じた私の論考を踏まえて書かれたものであることが記されていました。

 たいへん恐縮しました。

 しばらくすると『国語教科書の闇』という新著が届き,たしかに私の論考を大きく取り上げて下さっていることがわかりました。

 重ねて恐縮しました。

 御著書の中には,たとえば,こんな記述がありました。

 野中氏は教科書の定番教材研究のパイオニアで、二つの論文「定番教材の誕生『こころ』『舞姫』『羅生門』」(筑摩書房の教科書サイト「ちくまの教科書」)と「敗戦後文学としての『こころ』」(『現代文学史研究』第2集,2004年)は、本書執筆の動機付けにもなった先駆的業績である。

 野中氏の言葉を借りれば、定番教材には「戦争という大きな災禍を生き延びた者が抱え込んでしまった“サバイバーズ・ギルト”(生存者の罪悪感)という問題」が横たわっているという。戦後の日本人の精神のありようにまで踏み込んだ、誠にスケールの大きな仮説と言えよう。

 もちろん,新書とは言え,研究者が書いたものですから,手放しで賞賛しているわけではなく,川島幸希さんの考え方との違いを鮮明に示すために,むしろ批判的に言及されているところもあります。

 でも,批判されているということは,私のつたない論考を一人前の論文として扱って下さっていることを意味するわけで,有り難いことであることに変わりはありません。

生き残りの罪障感というモチーフ

 第五章「定番小説はなぜ『定番』になったか」の冒頭部分で川島幸希さんは,「エゴイズムはいけません」という「道徳的メッセージ」を教えることができるところに定番教材の特質があるという石原千秋さんの主張(『国語教科書の思想』)を批判します。

 25人の現役教員に尋ねた結果,「エゴイズムはいけません」という道徳的メッセージを教えるために「羅生門」や「こころ」や「舞姫」を教材とした教員はいなかったということが論拠です。

 次いで「定番教材の誕生」の次の部分に焦点をあてながら,118ページから122ページにかけて私の論考を丁寧に紹介して下さっています。

 3つの定番教材に共通しているモチーフとして、「死者の犠牲を足場にして生きることでイノセント(無垢性)が損なわれ、汚れを抱え込んでしまった生者の罪障感」という問題を抽出することができます。

 こうした文言を引用しながら川島幸希さんは,「芥川・漱石・鴎外は、このような意図の下に小説を執筆したのであろうか」という問いを立てた上で,反証をあげて自らの主張を展開していきます。

 「羅生門」の老婆の言葉を引用し,「この文章からは、老婆に自己の行動に対する自責の念や償いの感情、すなわち罪障感があったとは全く読み取れない。あるのは自己弁護と言い逃れだけである」と書いています。

 また,老婆から衣服をはぎ取って羅生門のはしごを瞬く間に駆け下りた下人にも,「『罪障感』のかけらもない」と述べています。

 さらに,「下人の行方は誰も知らない。」という結びが当初は「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあった。」となっていたことを踏まえ,「芥川は少なくとも当初、悪を肯定する人間として下人を描く意図を持っていたことになる」とも指摘しています。

「モチーフ」という言葉

 作中人物や語り手が語っている内容を,短絡的に芥川龍之介という作家の「意図」に結び付けることはできないので,じつは川島幸希さんの論証自体に危うさが孕まれています。

 でも,そのことよりもむしろ「受容史」という観点で展開していたつもりの私の主張が,「作家の意図」の問題と誤読されていることに愕然とさせられました。

 誤解されて批判されることほど切ないことはありません。

 そしてその原因はおそらく,川島幸希さんの側にはなく,私が不用意に「モチーフ」という言葉を使ったことにあります。

 モチーフ(motif)とは「動機・理由・主題」という意味のフランス語ですが,外来語としていくつかの意味で使われます。

 たとえば「美術作品を表現する動機やきっかけとなった観念。中心的な思想」という意味があります。

 あるいは「音楽の楽曲を構成する最小単位で,特徴的なメロディーやリズムの連なり」を指すこともあります。

 音楽における用法からの類推なのでしょうけれど,「壁紙や編み物などの装飾美術において模様を構成する単位」を指す場合もあります。

 同様に,文学において「物語を構成要素する事象や出来事,詩を構成する特徴的なパターン」を指すこともあります。

 私の気持ちとしては,語り手の語り口や作中人物の言動の向こう側に,受容する側が感受してしまう,物語を駆動する“力”,テクストを前にした読者の心に物語を生成させる「内部的な衝動」(motive)というようなニュアンスで書いたつもりでした。

 でも,「モチーフ=動機」と考えることもできますから,川島さんのように「執筆動機」と解釈し,そこから「作家の意図」の問題を導き出してしまうという誤解が生じる可能性があることを想定すべきでした。

 おそらく「モチーフ」という言葉を使うべきではなかったのでしょう。

 私が言いたかったことは,夏目漱石や森鴎外や芥川龍之介が,サバイバーズ・ギルト(生き残りの罪障感)に対して許しや癒しを与える「意図」を持って「こころ」や「舞姫」や「羅生門」を執筆したということではありません。

 問題は,それらの小説を受容する人たちのサバイバーズ・ギルト(生き残りの罪障感)であり,定番教材を受容することを通して生成する許しや癒しであり,それらの背後にある敗戦後を生きる日本人の情念でした。

 川島幸希さんは「野中説でむしろ私が同意できるのは、『羅生門』『こころ』『舞姫』を教科書に採録した編者たちの思想や心のありようの変化である」(135ページ)と書いて下さっているのですが,私の主張の主眼はじつはまさにその点に置かれています。

 「作家の意図」など初めから問題にするつもりはありませんでした。

 川島幸希さんの御著書を読みながら,文章を書いて人に伝えるというのは,ほんとうに難しいことだと反省させられました。

村上春樹の新作と「明日、ママがいない」騒動

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「ドライブ・マイ・カー」の煙草ポイ捨て描写

 北海道の町議会議員有志が質問状を送って抗議したことで,村上春樹の新作「ドライブ・マイ・カー」(『文芸春秋』2013年12月)に出てくる「中頓別町」という町名が,単行本として出版される際に変更されることになりました。

 みさきはそれを聞いて少し安心したようだった。小さく短い息をつき、火のついた煙草をそのまま窓の外に弾いて捨てた。たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう。

 質問状自体を読むことはできないのですが,インターネット配信されている新聞各社の報道によると,「町にとって屈辱的な内容。見過ごせない」「町民は傷ついている。過ちは見過ごせず、遺憾の意をお伝えする」「町の9割が森林で防災意識が高く、車からのたばこのポイ捨てが『普通』というのはありえない」「村上氏の小説は世界中にファンがおり、誤解を与える可能性がある。回答が得られなければ町議会に何らかの決議案を提出したい」などという思いがあって送付されたもののようです。

 この場面では,雨が降っている設定だから,山火事の心配はないだろうというピント外れな感想を漏らす人もいます。

 埼玉県民や足立区民なども,映画や小説などでしばしば偏見混じりの人物設定をされることがあり,今こそ中頓別町と共同戦線を張って抗議の声をあげるべきだなどと悪乗りして主張する人もいます。

 もう少し穏当に,フィクションなのだからいちいち目くじらを立てる必要はない,と言う人もいます。

 たしかに,女性ドライバーには「いささか乱暴すぎるかいささか慎重すぎるか」の二種類しかいないとか,「常習的な酒飲みのおおかた」が話すべきではないことを自分から進んで話すとか,「ドライブ・マイ・カー」の中には,女性蔑視的な発言や酒飲み蔑視的な発言もあります。

 これらについていちいち目くじらを立て,公的な組織が出版社に質問状を送付するというような事態は,ふつうは起こりません。

 というか,こういう表現を不愉快に思ったのなら,村上春樹の小説を読まなければいいわけです。

 また,女性蔑視的な発言や酒飲み蔑視的な発言に共感している人や,フィクションなのだから鷹揚に構えている人,そもそもそういうことに無頓着だったり鈍感だったりする人は,いちいち目くじらを立てません。

 私も酒飲みの端くれですが,村上春樹に腹を立てることはありませんでした。

 三人称で書かれているとは言え,俳優をしている「家福」という作中人物に視点を置いていますから,地の文に書かれていることはいちおうすべて彼の認識や価値観を描写したものであると解釈していたからです。

 中頓別町にも,女性にも,酒飲みにも,作中人物の高槻にも渡利にも,そしておそらく亡くなった妻に対しても,一面的なものの見方しかできないからこそ家福は,心の中の空洞を埋めることができず,周囲の世界とうまく折り合いをつけることもできずに,「悲しい芝居」を演じ続けなければならないのだろうと受け止めていました。

 「ドライブ・マイ・カー」の著作権を有している村上春樹という作家と,語り手,さらには作中人物の家福は,それぞれ別個のものであると見なすのが小説を読む上での基本的な約束事だと私は考えています。

 しかし,それでもやはり,中頓別町の人々にとって不愉快な描写であることに変わりはありませんし,作中人物の考えの背後に村上春樹の中頓別蔑視的な感性がある可能性を否定することもできません。

 そもそもフィクションである以上,実在の地名を使わなければならない必然性がないはずですから,あえて特定の地域の人々を不愉快にする書き方を選択することはなかったはずなのです。

 村上春樹は作中の地名を変更するという声明を迅速に出しました。

 連名で質問状を送り,「町民の防災意識は高い。『車からのたばこのポイ捨てが普通』というのは事実ではなく、町をばかにしている。そもそも町の実名を出す必要があるのか」と怒っていたという東海林繁幸町議は,「村上さんの誠意を感じた。今後、違う形で町を紹介してもらえるとうれしい」というコメントを出して,とりあえず一件落着したようです。

 めでたし,めでたし…と言いたいところですが,私の気持ちの中には,何だかちょっと嫌な感じが残っています。

 そのことを書き留めておこうと思います。

町民以上,政治家未満?

 連名で文芸春秋に質問状を出したのは,中頓別町の町議会議員の皆さんです。

 政治家です。

 したがって今回の出来事は,大げさに言えば,表現の自由に対する政治家の弾圧であり,大ざっぱに見れば,ETV特集の「問われる戦時性暴力」放送に際して政治家が圧力をかけたのではないかと言われている「NHK番組改変問題」と同じ構図の事件なのです。

 これが,中頓別町に住む愛読者からの抗議であるとか,一般町民の有志による質問状であるとか,インターネットで拡散した怒りのつぶやきであるとか,組織や権力とは無関係な人びとの声に対する一作家の反応であったなら,「何だかちょっと嫌な感じ」はなかったでしょう。

 もちろん,町の規模や歴史によって町議会のありようはさまざまですから,中頓別町の町議会議員というのは限りなく「町民有志」に近いのかもしれません。

 少なくとも,町議会議員というものはしばしば「町民以上,政治家未満」の存在であって,国政に関わる政治家と同一視すべきではないのかもしれません。

 とは言え,曲がりなりにも政治権力の側にいる人々が,表現の自由によって擁護されるべき小説言語に対して“圧力”をかけたわけです。

 それが出版社および文学者によって受け入れられ,社会的にも易々と容認されてしまったわけです。

 そういう出来事を前に私は,どうしても「何だかちょっと嫌な感じ」を覚えざるを得ないのです。

明日、ママがいない

 だから…というわけではないのでしょうけれど,芦田愛菜主演のテレビドラマ「明日、ママがいない」をめぐって物議を醸している放送中止騒動についても,「何だかちょっと嫌な感じ」を禁じ得ません。

 まとめサイトなどを見ると,こういう場合の常として,日テレに対する激しいバッシングが目立ちますが,一方で放送中止を求めたこうのとりのゆりかご(俗称:赤ちゃんポスト)の慈恵病院や全国児童養護施設協議会を批判する声も挙がっています。

 一例をあげれば,児童養護施設で育った方が,自らの当事者性を背景にしながら,放送中止を求めた人たちを次のように批判しています。(「明日、ママ」全国児童養護施設協議会の会見について

 ドラマ自体、一話でも
 「子どもが里親を選ぶ事ができない現実」
 をちゃんと伝えてくれていましたし、
 「施設の子どもが事件を起こすと、施設の子が悪者にされるという現実」
 これらも、ちゃんと放映してくれていました。
 少なくとも私の当時の子ども目線と同じです。
 (中略)
 このドラマは、被害にあった子どもの目線に近いものがあります。
 被害児童の声を主に問題提起をしていると私は思います。
 施設職員の方の重労働は事実でしょう。テレビはテレビで
 「かりんの家」
 といった素晴らしいグループホームも取り上げてくれています。
 だからと言って、あなた方の要請を受けて
 「施設は素晴らしい」
 「里親は素晴らしい」
 といった番組のみを作ったとして、里親の元や施設の元で被害に遭う児童がいたらどうするのですか。

 表面的には非人間的に見える「魔王」こと佐々木友則のふるまいは,おそらく彼なりの愛情表現なのでしょうし,その背後には彼の暗い過去が透けて見えています。

 というか,第1話の伏線が第2話以降のストーカーまがいの行為をめぐる人間模様の中で,すでにだいぶ種明かしされてきています。

 施設の子どもたちをペットに例えているのも,彼の冷酷な心の発露と言うよりは,むしろ施設の子どもたちに向けられた一般社会の大人たちのまなざしの反映であり,視聴者が属している社会のありようを告発するという機能すら持っているように思えます。

 町議会議員の有志VS出版社&作家という構図と,医療法人&社会福祉法人VSテレビ局という構図。

 総合雑誌に収録された短編小説と,全国ネットで放送されたテレビドラマ。

 自分が住む場所に対する誇りを傷付けられたことに対する憤りと,トラウマを抱えた子どもたちを守らなければならないという使命感。

 さまざまな差異をはらむ二つの出来事には,質問状や抗議の内容に十分に首肯できるところがあると思いながらも,それでもなお「何だか嫌な感じ」が私の中にはわだかまっています。

 法的な手続きによらず,また市民運動や消費者(視聴者)運動としてでもなく,ドラマが放送中止に追い込まれるという事態が現実化してしまったとしたら,たぶん私の中にはさらに暗澹たる「何だか嫌な感じ」がわき起こってきていたに違いありません。

(つづく?)

 「BUNGAKU@モダン日本」開設9周年

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 本日めでたくブログ開設9周年とあいなりました。


 コメント総数は先ほど来訪してくれた敬愛する犬ざえもんのものを含め,14831に達しました。

 そのうち私自身のコメントが7776! ダントツです。

 そして偶然にも,あと1つで7777コメント! フィーバーです(=^エ^=)。

 このあと早速7777つ目のコメントを書くつもりです。


 来訪して下さった皆さんからもとても多くのコメントを頂きました。

 Yahoo!ブログの「統計」という機能で,たくさんコメントを下さった上位20名を調べましたので,ここにそのお名前を記し,感謝の意を表します。

 1位 にこにこくん 243 
 2位 かえで。様 233 
 3位 テハヌー様 214 
 4位 おんくん様 200 
 5位 匿名様 200 
 6位 低人様 167 
 7位 kobachou様 167 
 8位 ちゃい様 165 
 9位 むにゅ様 164 
 10位 モラン様 158 
 11位 ×××様 153 
 12位 bataiyu2001様 143 
 13位 負犬@様 134 
 14位 めいべる堂様 117 
 15位 リリカ様 108 
 16位 ごくろう君様 104 
 17位 モクレン様 103 
 18位 HARUkA様 98
 19位 モコモコ様 97
 20位 匿名様 84

 もちろん「統計」機能でリストアップされた方のお名前はここに書き切れないほど多く,そういう皆様にも感謝の意を表したいと思います。

 リストに出てくるお名前の中には,もうブログを閉鎖してしまった方や交流が途絶えてしまった方もいるのですが,表示されているお名前をずっとたどって眺めていくと,いろいろなことが思い起こされ,あらためてここまで9年間のブログ上での交流は楽しかったなぁと感じます。

 皆様,ありがとうございました。

 とりあえず,10周年までがんばります。

 今後とも,よろしくお願い致します(・_・)(._.)。

やぎさんゆうびんの謎―まど・みちおさんの死を悼む

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1939年に生まれた“永遠の詩”

 Led Zeppelinが「永遠の詩」(The Song Remains the Same)をリリースする30年以上も前の1939年に,たった2コーラスの“永遠の詩”を作った詩人がいました。

 私が初めてその歌を聞いたのは,おそらくNHKの「みんなのうた」です。

 「やぎさんゆうびん」というその歌を聞き,大げさに言えば“無限”というものに初めて触れた気がしました。

 私はまだ保育園児でした。

 受け取った手紙を読まずに食べてしまうしろやぎさんくろやぎさんのやりとりは,歌がが終わっても永遠に続くのだと思いました。

 現に,放送終了後も幼い私の頭の中に流れていたその歌は,1番の次に2番,2番の次にまた1番…と無限ループを繰り返していました。

 手紙を食べてしまうという宿業を抱えたしろやぎさんくろやぎさんが,メッセージを伝えることから疎外されたまま,永遠に郵便のやりとりを続ける摩訶不思議な世界は,叩くたびにビスケットが無限に増え続ける「ふしぎなポケット」(1954)という歌とともに幼い私を魅了しました。

 しかも,少し大きくなってから気づいたのは,もしかしてしろやぎさんくろやぎさんがどこかで気が変わって「さっきのてがみのごようじなあに」という手紙を読んでしまったとしても,無限ループから逃れることができないということでした。

 「さっきのてがみのごようじなあに」という質問を受けたしろやぎさん(or くろやぎさん)が,質問に答えて「さっきのてがみ」の内容を伝えるとすれば,再び「さっきのてがみのごようじなあに」という手紙を書くしかないからです。

 もちろん,その「さっきのてがみのごようじなあに」という手紙を受けた取ったくろやぎさん(or しろやぎさん)も,その手紙を食べずに読んだとしても,「さっきのてがみのごようじなあに」'という手紙を繰り返すことになります。

 …ですよね?

 くろやぎさんがいちばん最初に手紙を受け取ったときに文面を読まない限り,届いた手紙を読もうが食べようが,「さっきのてがみのごようじなあに」という返信を送り続けるしかないのです。

 神の怒りに触れたシーシュポスのように。永遠に。

謎めいた詩の意味

 それにしても,そもそもしろやぎさんくろやぎさんにどんなメッセージを送ろうとしたのでしょうか。

 その謎を解く鍵は,そもそもなぜ手紙を食べてしまうのかという謎の中に隠されています。たぶん。

 (ここからは,眉に唾して読んで下さい。)

 まず確認しておくべきは,やぎが腹を空かせていたから思わず手紙を食べてしまったということはあり得ないということです。

 返事を書き続けていることからもわかるように,しろやぎさんくろやぎさんもいくらでも封筒や便箋を持っているわけです。

 お腹が空いているならば,自分の便箋を食べればよいわけです。

 したがって「思わず食べた」のだとしても,それは《食べ物=紙》に対する動物的な反応ではありません。

 むしろ「さっきのてがみのごようじなあに」という返信を出していることからもわかるように,誰からの手紙であるのかを確かめた上で食べているわけです。

 だとすれば,私が考えるところ,可能性はひとつです。

 1999年7の月に発表された,かの有名な「やぎさんゆうびんの謎」の中ではあっさり否定されていますが,しろやぎさんくろやぎさんのあいだに恋愛というファクターを想定する以外にありません。

 ただし,「黒やぎさんは白やぎさんのことを好ましいとは思っていないのである。むしろ嫌っているのかもしれない。ゆえに、白やぎさんからの手紙を読まずに食べてしまうのである」という「やぎさんゆうびんの謎」の筆者による想定は,否定するための想定であるとは言え,あまりにも見当外れです。

 片想いではなく,両想いです。

 正確に言えば,互いに互いのことを好ましく思っていてそのことを何となく感じてはいるけれど,互いに自分に自信が持てなくて,自分の気持ちをきちんと伝えられないまま時間ばかりが経過してしまったという,“友だち以上恋人未満”の2匹だと考えるべきです。

 大好きな白やぎさんから手紙が届いたことがわかったとたんに「もしかしてラブレター!」と思い,ドキドキを抑えきれない黒やぎさんは,なんだか開封するのが無性に怖くなり,思わず手紙を食べてしまいます。

 今まで築き上げてきた“友だち以上恋人未満”の関係が壊れてしまうのが怖かったのかもしれません。

 そんな黒やぎさんからの手紙を受け取った白やぎさんも,自分のラブレターに対する返事がイエスなのかノーなのかが気になります。

 「もしもノーだったらどうしよう?」と考えると(いやイエスだったとしても),なんだか開封するのが無性に怖くなり,思わず手紙を食べてしまいます。

 以下同。。。

 もしかして,途中で手紙を食べずに開封したとしても,「さっきのてがみのごようじなあに」と書いてあるだけですから,「さっきのてがみのごようじなあに」という返事を出すしかなくて,互いに本心を知ることを怖れるあまり,永遠に恋愛を成就させることができないわけです。

 自分の気持ちを打ち明け,恋愛が成就することを誰しも願うわけですが,一方で,成就してしまった瞬間から,その恋愛は壊れてしまう可能性を持ち始めるわけです。

 だからこそ,恋愛の成就を望んでいるはずの黒やぎさんは,恋愛の成就につながる手紙を読むことを怖れ,思わず食べてしまうのです。

 そのくせ,食べてしまったとたんに,何が書いてあったのかということがやっぱり気になって「さっきのてがみのごようじなあに」という聞きたくなってしまうのです。

 恋する人のそんな不思議な心理を,29歳の若き詩人が“永遠の詩”として結実させたのが「やぎさんゆうびん」だったのかもしれません。



 まど・みちおさんが今朝9時9分に亡くなりました。

 享年104歳。天寿を全うしたと言ってもよい大往生です。

 合掌。



ウィキペディアで作った暇つぶし文学者クイズ!

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暇つぶし文学者クイズ!


それでは問題です!

 ウィキペディアの記述に基づいて作りました。

 有名な文学者についての以下の逸話のうち、正しいものを選びなさい。

(1)尾崎紅葉
 死の床での最期の言葉はなんと,見舞いに来た人々が泣いている様子を見て言った「どいつもまずい面だ」であった。

(2)夏目漱石
 英語の授業で生徒が「I love you」「我君ヲ愛ス」と訳したときに,「月が綺麗ですね」とすべきだと教えた。

(3)森鴎外
 ビールの研究をしていたにも関わらず,酒は飲めなかった。大の甘党で知られ,おまんじゅうをお茶漬けにして食べていた。

(4)谷崎潤一郎
 少なくともノーベル文学賞の候補に5回選ばれ,最終候補の5人に残ったこともある。また,日本人で初めて全米芸術院・米国文学芸術アカデミー名誉会員に選出された。

(5)江戸川乱歩
 お稚児趣味があり,若い歌舞伎役者を可愛がった。ただのファンを超えた関係があった。

(6)横溝正史
 大の電車嫌いで,電車に乗るときには必ず酒の入った水筒を首からかけ,飲みながら電車を乗り継いだ。あるいは妻といっしょに電車に乗り,その手をずっと握っていた。




それでは,正解の発表です!


 
 (1)から(6)のうち,正しいものは…,


























 全部です!



 ウィキペディアの記述自体が嘘かもしれませんが,そこまでの責任は負いかねます。あしからず(=^エ^=)。

滑走路に咲くクローン桜―団塊のソメイヨシノ考

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桜ソングとソメイヨシノ

 大震災が起こるちょうど1ヵ月前の2011年2月11日に「桜ソングと無縁社会」という駄文をエントリーしました。

 同じ時代を生きているはずなのに,まるでパラレル・ワールドのようにそれぞれが別個の世界を生きている現代人が,何とか共有することができそうな場所を探し求めて書いた記事でした。

 今年も,GReeeeNの「桜color」や湘南乃風の「さくら~卒業~ feat.MINMI」など,新しい桜ソングがリリースされていて,文化としての桜が抱え込む歴史的な蓄積はますます厚みを増しています。

 とは言え,21世紀を生きる日本人の多くが愛する桜(=ソメイヨシノ)が積み重ねてきた歴史な蓄積に限って言えば,意外と底の浅いものであることは,しばしば見すごされています。

 ソメイヨシノが生まれたのは,およそ150年ほど前の江戸末期から明治初期のことです。

 しかも種子で増えることがなく,接ぎ木でしか繁殖しないクローン種であるために,自生するソメイヨシノというものは存在しません。

 私たちが見ているソメイヨシノは,すべて人工的に植樹されたものです。

 公園や学校,街路や河川敷など,土地を整備する事業を行った時に,ほぼ同じ樹齢の若木が植樹され,同じように育ち,同じように朽ち果てていきます。

 また,接ぎ木でしか繁殖しないクローン種であるために,気温や日照などが同じ環境であれば同時に花を咲かせます。

 だからこそ,ソメイヨシノの並木道には,見事な花びらのトンネルや花びらのじゅうたんが出現し,私たちの目を楽しませてくれるのです。

 無粋な言い方になりますが,桜ソングに歌われているのは,古典文学に描かれている桜とは別物の,人工的なクローン桜なのです。

 現在,日本各地でたくさんのソメイヨシノを見ることができますが,150年前にはほとんど皆無だったわけで,明治・大正・昭和と時代を重ねるうちに,2倍・4倍・8倍・16倍…というような感じで,言わば等比級数的にふえてきたものです。

 ですから,桜ソングブームが起こるずっと前,たとえば50年前には,ソメイヨシノの見事な桜並木を見ることができる場所は,おそらく今よりもずっと少なかったはずです。

 つまり,私たちがイメージするような桜前線の北上と,日本列島各地で一斉に花を咲かせる桜が演出する春のイメージは,たかだかここ半世紀ほどの間に定着してきたものに過ぎないわけです。

滑走路に咲くソメイヨシノの大樹

 
 
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 先日,国際基督教大学(ICU)に行ってきました。

 それはそれは見事な桜並木があり,この季節には観桜会を開催してキャンパス内に一般の人が立ち入ることを認めています。

 正門からまっすぐにキャンパス内をつらぬくマクリーン通りの両側には,見事な大樹が立ち並び,一斉に花を開かせていました。

 あいにくの花曇りでしたが,晴れ間がのぞくと花びらの色が鮮やかに浮かび上がり,それはそれは圧倒的な桜並木でした。

 じつは,これだけ広々としたまっすぐな道に桜が植えられているのには訳があります。

 ICUの関係者にはよく知られた話ですが,この場所はかつて中島飛行機という軍需企業の研究所があった場所です。

 富士重工業(SUBARU)の前身である中島飛行機がこの場所につくった三鷹研究所の建物と敷地をそのまま利用してつくられたのが,1953年に設置された国際基督教大学(ICU)なのです。

 現在はICUのキャンパス内を終点とする路線バスも行き交うこのアスファルトの道は,どうやらかつては滑走路としての機能もあわせ持っていたようです。

 つまり,軍用機を生産していた軍需企業の滑走路に,戦争が終わった後に平和への祈りをこめて植えられたのが,このソメイヨシノの並木なのです。

 おそらく樹齢60年を越えたソメイヨシノたちは,今を盛りと咲き誇っていました。

ソメイヨシノの寿命が尽きる時

 クローンであるためか,ソメイヨシノの寿命はそれほど長くないと言われています。

 一説には60~70年。

 100年を越える古木はほとんど現存しないと言われています。

 もしも寿命が70年ぐらいだと仮定すると,ICUのソメイヨシノたちは,クローンであるがゆえに,ほぼ一斉に天寿を全うすることになります。

 創立以来ずっと愛されてきた見事な桜並木が,わずか数年のうちに一気に姿を消してしまうかもしれないのです。

 ICUのマクリーン通りのように,戦後まもなく平和への祈りを込めて整備された日本中の街路や公園のソメイヨシノも,いっせいに朽ち果ててしまうのかも知れません。

 クローンゆえの悲劇。

 ちょっと恐ろしい感じがします。


 しかしながら,ソメイヨシノの150年の歴史を考えると,こんな風にも考えられます。

 そもそも自然交配で自生することのないソメイヨシノは,街路や公園などがある都市部に植樹される桜です。

 しかも20世紀半ばにはまだそれほど膨大な数のソメイヨシノが植樹されていたわけではなかったでしょう。

 そういう状況の中で戦争が起こり,日本の大半の都市は空襲に遭って焦土と化しました。

 植樹されていたソメイヨシノも,そのほとんどが空襲によって焼けてしまったり,傷ついてしまったり,大きな被害を受けたはずです。

 だから,樹齢100年を越える古木がほとんど現存していないのは,当然のことなのです。

 見方を変えると,日本全国のソメイヨシノは,そのほとんどが戦後生まれ。

 これは当てずっぽうですが,戦後復興期と高度成長期に植樹のピークが2つあって,それはちょうど第一次ベビーブームと第二次ベビーブームと重なっている可能性があります。

 樹齢70年近い古木たちの風格ある桜並木と,樹齢30年余りの線の細さが残る壮年期の桜並木。

 人間と同じように,突出して多くのソメイヨシノが,2つの世代にわたって日本全国に咲き誇っているのだとしたら…。


 家族とふらりと散歩をして,近所の川の両岸に咲いているソメイヨシノを眺めながら,そんなことをつらつらと考えていました。
 
 
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「夢で逢えたら」と「桜の木の下には」―震災後文学論序説(1)

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夢で逢えたら

 NHKSONGSプレミアム「薬師丸ひろ子」を観ました。

  「潮騒のメモリー」はもちろん,「セーラー服と機関銃」「メイン・テーマ」「探偵物語」「Woman“Wの悲劇”より」などの懐かしのヒット曲。

薬師丸ひろ子の人生哲学が伝わってくる貴重なインタビュー映像。

 何を隠そう,高校時代に薬師丸ひろ子相手役オーディションに応募し,見事に書類審査で落とされた経歴があるこのワタクシ。

「あまちゃん」ブームなどと無関係なところで,大いに興味を抱き,じっくりと番組を楽しみました。

 特に印象に残ったのは,「故郷」「秋の子」「黄昏のビギン」などのカバー曲です。

 震災直前の2011年3月2日に歌手生活30周年を記念するベストアルバム「時の扉」を出している薬師丸ひろ子ですが,これらのカバー曲は震災後の2013年12月にリリースされています。

 そのためなのか,聴く側の私がそう感じてしまうためなのか,カバー曲の選択には震災との関連を感じざるを得ないものが含まれています。

 たとえば「故郷」。

 たとえば「夢で逢えたら」。

 アルバム「時の扉」の最後に収録されている大滝詠一作詞・作曲の「夢で逢えたら」についてSONGSプレミアムのナレーションは,あたかも昨年12月30日に亡くなった大滝詠一へのメッセージであるかのように紹介していましたが,収録されたのは生前のことですから,歌った時の薬師丸ひろ子にはそういう意識はなかったはずです。

 放送することによって,大滝詠一へのメッセージという意味を持ってしまったとしても。

 夢でもし逢えたら 素敵なことね
 あなたに逢えるまで 眠り続けたい
 
 あなたは わたしから遠く離れているけど
 逢いたくなったら まぶたをとじるの

 いったいこれはどういう歌なのでしょうか。

 もちろん,遠距離恋愛の歌であると考えることもできます。

 でも,「あなたに逢えるまで 眠り続けたい」という思いは,現実の世界では決して逢うことができないからこそであると考えることもできます。

 そう考えると,大瀧詠一の生前にこの曲をカバーした薬師丸ひろ子が聴き手として想定していたのは,震災の犠牲者ならびにその遺族だったのではないかと思えてくるのです。

 朝ドラの「あまちゃん」で震災の犠牲者に向けて強いメッセージがあからさまに表現されることはなかったわけですが,軽妙なセリフ回しで構成されるユーモアに満ちた場面の中には巨大な悲劇がくっきりと影を落としていて,だからこそひしひしと伝わってくるものがありました。

 同じように,明るい曲調の「夢で逢えたら」の歌詞にも,現実世界では決して逢うことができなくなってしまった人,夢で逢うことを願うしかない人,すなわち死者への哀惜の念が満ちているように思えます。

 「故郷」や「夢で逢えたら」のように震災の前に書かれた歌詞であっても,震災後という文脈の中に置かれることによって新しい意味が付加されることがあるわけです。

 うさぎ追いしかの山
 小ぶな釣りしかの川
 夢は今もめぐりて
 忘れがたき故郷

 逆に言えば,これまでに書かれた文学の中には,一見すると無関係に見えるけれども,じつは震災の傷痕がくっきりと刻印されているものがあるはずなのです。

桜の木の下には…

 梶井基次郎「桜の木の下には」は,桜を描いた近代文学の名編として有名です。

 桜の樹の下には屍体が埋まっている!
 これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。

 散文詩のようなこの小品が発表されたのは,1928(昭和3)年のことです。

 1923(大正12)年の関東大震災の5年後のことです。

 しかも,震災の年に梶井基次郎は京都にいました。

 東京に転居したのは,震災翌年の1924(大正13)年のことです。

 そんな梶井基次郎の「桜の木の下には」を関東大震災と結びつけて解釈するなどということは,これまでまったく考えられてこなかったことです。

 でも,東日本大震災から3年余りを経た今の私には,この小品が震災後文学に見えています。

 岩手からも宮城からも福島からも離れた場所で生きて来た私の実感からすると,震災当日に被災地から遠く離れた京都にいたとしても,時間的に5年の隔たりがあったとしても,震災が梶井基次郎の精神に影を落とすということは,十分にあり得ることだと思えるのです。

 もちろん,メディアを通して伝えうる情報の質は,当時と今とではまったく異なります。

 しかし一方で,被災地の外に留まり続けている私とは異なり,梶井基次郎が被災地である東京に移住していることは見逃せません。

 あちこちに震災の傷跡を残しながらも,復興への歩みを始めていたはずの東京で,いったい何を見て,何を聞いたのでしょうか。

 震災後の東京に何を感じたのでしょうか。

 私なりに想像してみると,生々しい記憶をともなっていたはずの関東大震災という現実が,梶井基次郎の精神に影を落とした可能性をどうしても考えざるを得ません。

 そしてそういう精神の持ち主が,復興のために都内各所に植えられたソメイヨシノから受け取ったヴィジョンが,「桜の木の下には」という特異な表現に結実したのではないかと思うのです。

(つづく)

復興公園の桜の木の下には―震災後文学論序説(2)

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大学通りの桜並木

 NHKオンデマンドで「小さな旅 さくら道で~東京 国立市~」を見ました。

 多彩な桜が織り成す並木道の映像は圧倒的でしたが,そもそもこの桜並木が関東大震災と関係していることを初めて知り,なおさら感慨深いものがありました。

 東京高等音楽学院(現・国立音楽大学)と東京商科大学(現・一橋大学)が,関東大震災(1923年)によって荒廃した都心から郊外の谷保村(現・国立市)に移転したのは,それぞれ1926年と27年のことです。

 「理想の文教都市」を目指して開発が進められ,大学移転と足並みをそろえて国立駅も開業し,市街地が整備され,やがて1934年に大学通りに桜の植樹が行われることになります。

 1934年というと関東大震災から11年も経っているわけですが,福知山線脱線事故から9年目にあたる先週の4月25日や,阪神淡路大震災から19年目にあたる今年1月17日にテレビなどで流れていた遺族や被害者の様子を見る限り,10年経っても20年経っても消えないものは消えないのだと痛感させられます。

 新しく整備された谷保村に移転した人びとの中には,関東大震災の生き残りとして新天地での生活を始めた人も少なくなかったはずです。

 1923年の関東大震災から1930年の帝都復興祭を経て大学通りに桜が植樹されるという時間の流れの中に,多くの死者への鎮魂の思いと,復興への熱い気持ちが底流していたに違いないのです。

 そのような思いの中で,大学通りの桜は植えられ,それから毎年見事な花を開き,そして散り,年輪を重ねてきたわけです。


 東京都内の多くの桜も,死者への鎮魂の思いと,新しい時代への期待の中で植樹されたものです。

 とりわけ若木の頃から花を開くソメイヨシノは,若葉が出る前に花だけを楽しめることから好んで植えられました。

 そしてソメイヨシノは,種子で増えることがなく,接ぎ木でしか繁殖しないクローン種であるからこそ,そこに暮らす人びとの心の歴史と無関係に存在することができないのです。

 たとえば,隅田公園について記したページの中に,次のような記述がありました。

 大正12年(1932)の関東大震災は隅田川沿いの人々に大きな打撃を与えました。住宅、工場はもとより、江戸時代から続く名所・墨堤の桜も壊滅的な状態となりました。そのような中、帝都復興計画事業の一環としての防災公園、隅田公園は大正14年から着工し、昭和6年に開園しました。
 機能的ではありましたが、味気ない公園に憩いと潤いを与えようと、当時の吾妻橋親和会の人々44人が、江戸から続く墨堤の桜を復活させようと、多くの桜を植栽しました。

 1000本もの桜が楽しめる隅田公園ほどではありませんが,震災復興公園として整備された浜町公園にも錦糸町公園にも多くの桜が植樹されています。

 そして防災公園として整備されたのは,隅田公園のような大規模公園だけではありません。


 都内各所の小学校に隣接する形で「震災復興小公園」も整備されました。

 
 防災目的なので植栽には基本的には常緑樹が使われたようですが,学校教育に役立てるためにそれ以外の樹木も植えられ,その中には当然ソメイヨシノがあったかもしれませんし,敷地内に桜を植えた復興小学校は少なくなかったはずです。


 明治維新期の上野戦争(1868年)や東京大空襲(1945年)など,市街地が壊滅的な打撃を受けるたびに人びとは力を合わせて復興し,そのたびに桜を植えてきたと言っても過言ではないでしょう。

死者と桜

 関東大震災(1923年)での死者・行方不明者は,10万人を超えると言われています。

 インターネット上に公開されている山積みになった遺体の白黒写真(朱雀堂文庫所蔵の写真)でその惨状の一端を垣間見るだけでも,愕然とせざるを得ません。

 これらのおびただしい数の死者たちの大半は,葬儀らしい葬儀が執り行われることもなく埋葬されました。

 もちろん,中にはねんごろに弔われた遺体もあったでしょうけれど,全ての遺体をただちに火葬して納骨することは困難だったはずで,穴を掘って「仮埋葬」された身元不明の犠牲者が大半を占めていたと思われます。

 どんな場所に「仮埋葬」されたのか,詳しいことはよくわかりませんが,避難場所としても使われるような広い遊休地や公園などの一角などが選ばれたことは十分に考えられます。

 震災復興公園や復興小学校の敷地も,震災時には遺体が運び込むために使われた土地だった可能性があります。

 そう考えると,美の中に惨劇を見出した散文詩であるなどと評される梶井基次郎の特異な表現は,じつは事実をありのままに語っただけの単なる“散文”に過ぎないと言えるのかもしれません。

 そして,「桜の木の下には屍体が埋まつてゐる!」などと書けるのは,梶井基次郎が大震災の当事者ではなかったからなのだと思えてきます。

 実際に“遺体の片付け”がどのように行われたのかを知っている人や,きれいに整備された公園にかつて屍体が積み上げられていたことを知っている人は,そのことをあえて「散文詩」として表現することはないはずだからです。

 東日本大震災後の表現空間がどのような振幅の中で展開するものであるのかを見てきた私が,「桜の木の下には屍体が埋まつてゐる!」などと書いてしまう梶井基次郎に感じるのは,“デカダンスの美意識”というよりもむしろ“デリカシーの欠如”なのです。

(つづく)

震災後文学として読む―中原中也「月夜の浜辺」

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「月夜の浜辺」という詩/死

 中原中也といえば「汚れっちまった悲しみに……」を思い浮かべる人が多いと思いますが,若い世代の日本人にとってはむしろ中学校の国語教科書に掲載されている「月夜の浜辺」の方がなじみ深いかもしれません。

 月夜の晩に、ボタンが一つ
 波打際に、落ちていた。

 それを拾って、役立てようと
 僕は思ったわけでもないが
 なぜだかそれを捨てるに忍びず
 僕はそれを、袂(たもと)に入れた。

 月夜の晩に、ボタンが一つ
 波打際に、落ちていた。

 それを拾って、役立てようと
 僕は思ったわけでもないが
    月に向ってそれは抛(ほう)れず
    浪に向ってそれは抛れず
 僕はそれを、袂に入れた。

 月夜の晩に、拾ったボタンは
 指先に沁み、心に沁みた。

 月夜の晩に、拾ったボタンは
 どうしてそれが、捨てられようか?

 一説には,わずか2歳の長男文也の死が背景にあるとも言われています。

 浜辺で拾ったボタンを捨てられずにいる「僕」の哀切な感情のほとばしりには,可愛いさかりの文也を喪った哀しみが秘められているという読み方です。

 一方で,文也の死の前に書かれていたのではないかと言う人もいます。

 作家の実生活に安易に結びつけて解釈するのではなく,「僕」とボタンの関係の中にもっと普遍的な哀しみを読み取ろうということなのでしょう。

 いずれにしても,「月」も「夜」も「海」も,「死」を象徴することのある言葉です。

 口語定型詩には,童謡のような響きが感じられ,どこか幼さを感じさせることが多いのですが,「月夜の浜辺」には幼さが孕む生命感とは対極の「死」のイメージが濃厚にただよっています。

 それは,「僕」が波打際という境界領域で「死」に瀕しているということかもしれませんし,あるいは,落ちているボタンの持ち主の「死」なのかもしれません。

最も重要な詩語

 「月夜の浜辺」の中で最も重要な詩語は何かと問われれば,多くの人が「月夜」や「ボタン」を挙げるのではないでしょうか。

 「月夜」はタイトルを入れて5回使われています。

 「ボタン」は4回使われています。

 多用されているということは,それだけ重要な詩語であると考えることができます。

 ちなみに「晩」も4回,「僕」も4回です。

 ところが,それらの語よりもずっと多く使われている詩語があります。



 「それ」です。



 全部で8回も使われています。

 しかも同じ「それ」が繰り返されているというよりは,一つとして同じものはなく,8回の「それ」がそれぞれに異なるニュアンスをはらんでいます。

 もちろん指示語の「それ」が何を指しているかということを国語の読解問題的に考えれば,「ボタン」です。

 したがって「ボタン」が4回,「それ(=ボタン)」が8回と考えれば,合計12回使われている「ボタン」が最も重要な詩語であることになります。

 しかし,「それ」は「それ」であって「ボタン」ではありません。

 特別に高価なボタンでも,特別に美しい「ボタン」でもないはずのその「ボタン」は,「僕」にとって捨てることのできない,他の何ものにも代えがたい特別な「ボタン」です。

 つまり,それはたんなる「ボタン」ではないのです。

 いや,もはや「ボタン」ではないのです。

 他の何ものにも代えがたい,名付けることすらできないような何ものかを,「僕」は「それ」と呼んでいるのではないでしょうか。

ちっぽけな漂着物が喚起するイメージ

 震災後に宮澤賢治「雨ニモマケズ」が注目されました。

 明治三陸津波の年である1896年に東北で生まれ,昭和三陸津波の年である1933年に東北で亡くなった宮澤賢治の生涯を考えると,何か運命的なめぐり合わせを感じざるを得ません。

 だだし「雨ニモマケズ」には三陸大津波のことが直接的に書き込まれているわけではありませんし,1931年に手帳に記された殴り書きのような“作品”に1933年の三陸大津波の影響があったと考えることもできません。

 それでも「雨ニモマケズ」は,震災後の日本において改めてその言葉の喚起力が見直されて多くの人びとの心を動かしました。

 「作者の意図」「発表時の時代背景」などを越えた新しい意味が,既存の詩に見出されたわけです。

 「詩を受容する現在」が「雨ニモマケズ」という詩の命を更新したと言ってもよいでしょう。


 中原中也の「月夜の浜辺」にも,同じように可能性が秘められている気がします。

 「月夜の浜辺」は,1933年3月に発生した昭和三陸津波のほぼ4年後にあたる1937年2月に発表されています。

 作られたのはその前年の1936年11~12月頃でしょうか。
 
 三陸津波のおよそ3年8ヶ月後ということになります。

 2011年3月の東日本大震災を起点としておよそ3年8ヶ月後というと,今年の11月頃ということになります。

 そこで,こんな妄想を。。。


    *    *    *


 たとえば今年の11月。

 月夜の晩に私が独り。

 湘南海岸を歩いています。

 何の気なしに波打ち際に近づくと,

 そこに小さな漂着物が。

 何かと思って手に取るとそれは…。


 もはやゴミとして捨てるしかないような代物ですが,

 元の持ち主にとっては,またその家族にとっては,

 かけがえのない物であるはずです。


 私はそれを捨てるに忍びず。

 それをポケットに突っ込みます。

 そんな風にして出会ってしまったそれは,

 私にとっては何の役にも立たないものですが,

 だからこそなおさら,それは捨てられません。


    *    *    *


 「どうしてそれが、捨てられようか?」という最終行は,2014年を生きる私にとって,そのような感情をはらんだものとして感受されています。

 月夜の晩に、ボタンが一つ
 波打際に、落ちていた。

 それを拾って、役立てようと
 僕は思ったわけでもないが
 なぜだかそれを捨てるに忍びず
 僕はそれを、袂(たもと)に入れた。

 月夜の晩に、ボタンが一つ
 波打際に、落ちていた。

 それを拾って、役立てようと
 僕は思ったわけでもないが
    月に向ってそれは抛れず
    浪に向ってそれは抛れず
 僕はそれを、袂に入れた。

 月夜の晩に、拾ったボタンは
 指先に沁み、心に沁みた。

 月夜の晩に、拾ったボタンは
 どうしてそれが、捨てられようか?


付記1

 この詩のボタンについて,ワイシャツのボタンではなくて,もう少し大きいカーディガンとかジャケットのボタンとかを漠然と想像していましたが,考えてみると「月夜の浜辺」が発表された1930年代には,私が想像するような一般的なプラスチックのボタンはなかったはずです。

 調べてみると,牛乳を原料とするカゼインプラスチックのボタンや貝ボタン,金属製のボタン,木製のボタンなどが使われていたようです。


付記2

 湘南海岸の漂流物の話をしましたが,相模湾に外海からの漂流物が流れ着くということはあまりないと思います。

 漂流物の大半は,おそらくは今日のような大雨に際に相模川や境川から流れ出た塵芥の類です。

ことばの力とサッカー日本代表の次期監督

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ワールドカップはこれから

 コロンビア戦の前に「なんでテレビはこんなにワールドカップ一色なんだ。いい加減にしてほしい」とぼやいている人がいました。

 V9時代のジャイアンツをよく知るプロ野球世代の方でした。

 たしかにワイドショーもスポーツニュースもワールドカップばかりでした。

 でもV9時代のジャイアンツを知り,読売新聞の勧誘員からプロ野球の入場券の代わりに日本リーグの読売対日産の入場券をもらったことのある世代の人間なら知っています。

 「ワールドカップ開催中なのに,なんでスポーツニュースはプロ野球ばかりなんだ。いい加減にしてほしい」とぼやいていた時代があったことを…。

 そういう時代を知っている人間にとっては,日本代表が敗れ去って,サッカーのニュースが激減したここからが,いかにもワールドカップらしいワールドカップです。

 日本が仲間に入れてもらえず,世界的なスポーツの祭典であるにもかかわらずマスメディアがちっとも伝えてくれない,よそよそしくて敷居が高い,見えているのに遙か彼方にあってまるで満月のように輝く,手の届かない場所で繰り広げられているからこそ魅惑的でエキサイティングなワールドカップなのです。

日本サッカーと言語技術教育

 10年ほど前につくば言語技術教育研究所の三森ゆりかさんの講演を拝聴する機会がありました。

 日本サッカー協会のコーチングスタッフや選手に言語技術講習をはじめたばかりの頃でした。

 サッカーの技術向上や戦術理解のためには言語技術の向上が不可欠であることを認識し,そのための具体的な手立てとしてJFAアカデミーの「コミュニケーションスキル講座/言語技術」を立ち上げたのは,長年にわたり協会の教科担当ポストを歴任した現・日本サッカー協会副会長の田嶋幸三さんです。

 旧西ドイツのケルン体育大学へ留学してコーチライセンスを取得し,筑波大学助教授や大学サッカー部コーチをつとめ,さらにはU-15やU-19日本代表の監督をつとめた理論家らしい目の付け所で,言語技術教育を日本サッカーのレベルアップに活用しようという発想に感服したのを覚えています。

 「香川真司も実践している?世界で輝くためのコミュニケーション・スキル」という記事の中で,三森ゆりかさんはこう言っています。

 「サッカーは論理のスポーツです」
 
 自身も中学・高校をドイツで過ごした三森先生は言います。
 
「私がドイツにいた時期はまさに西ドイツの全盛期。私が見たサッカーは、選手がみな論理で動いていました。実況や解説でも「論理的」という言葉が頻繁に出てくる」
 
 サッカーに限らずドイツをはじめとするヨーロッパ各国では、言語技術に基づく論理的思考を子どもの頃から叩きこまれ、自分の意見を自分の言葉で論理的に説明できるように教育されているそうです。
 
「考えてみればサッカー強国と呼ばれるドイツ、フランス、スペイン、オランダはみんなこういう教育を行なっている。帰国して強く感じたのは日本ではこういう教育が行われていないということです」
 

 10年ほど前に私が聞いた講演でも,日本の言語技術教育がいかに立ち後れているかという話をしていました。
 
 東京12チャンネルで放映されていた三菱ダイヤモンドサッカーで,金子勝彦さんの名調子と岡野俊一郎さんのロジカルな解説を聞きながらレベルの高いサッカー先進国のゲームを見て育った私にとっては,「なるほど~」と感じ入る話でした。

サッカーと通訳

 そんな日本サッカー協会が,ザッケローニ監督の後任に,またしても外国人監督を起用しようとしていることが私にはどうにも腑に落ちません。

 ザッケローニ監督は,ワールドカップの敗戦に際して「何かを変えることができるのであれば選手のメンタルの部分だ。技術や戦術ではなく、選手のメンタル面にもっと取り組んでおけばよかったと思う」という意味のことを語ったそうです。

 メンタルを動かすにはことばです。

 「最後は金目でしょ」とか「早く結婚した方がいいんじゃないか」などのような短いことばが,時にはメンタルどころか,多くの人の感情を揺さぶり,社会を揺るがします。

 かつてWBCでイチローの心が奮い立ったのは,侍ジャパンの辰徳監督「おれはイチローが見たいんだ」ということばを使ったからこそです。

 「君のいつものプレーが見たい」とか「あなたらしいプレーをしてほしい」ということばでは,イチローのメンタルは動かなかったでしょう。

 ザッケローニ監督が何を語りかけようとも,通訳のことばが力を持っていなければ選手のメンタルは動きません。

 英語ならまだしも,フランス語やイタリア語を理解できる代表選手はほとんどいないでしょうから,監督が選手のメンタルに働きかける上で通訳の果たす役割は重要です。

 「君のいつものプレーが見たい」「おれはイチローが見たいんだ」という表現の差異に自覚的で,それをその場に応じて自在に駆使できるような有能な通訳がいない限り,あるいはそういう役割を果たせる日本人コーチがサポートできない限り,外国人監督の良さを生かすことはできないのではないかという危惧を持ちます。

 ヨーロッパからやってきた監督のことばを,ヨーロッパ由来の言語技術を学んだ通訳が翻訳して伝えるというやり方で,日本人選手のメンタルをどこまで動かせるのかというあたりが心配です。

 日本サッカー協会が日本人の中から監督を選ぶのは難しいのでしょうか。

 でも,日本人が代表監督の経験を積み重ねていかなくては,日本サッカーはいつまで経っても世界に追いつけないのではないでしょうか。

 ザッケローニ監督の年俸は2億円を超えるらしいですが,日本人ならそんなにお金をもらわなくても,命がけで監督業に取り組むのではないかと思うのですが…。


付記

 田中将大投手から決勝ホームランを打ったレッドソックスのナポリ選手の失言が,アメリカで物議を醸しています。

 ダッグアウトで出迎えられる際に「What an idiot!!(なんてまぬけな)」と口走ったというのです。

 Yahoo!ニュースによると,「あいつは俺に直球を投げてきたよ」と続け,その音声はFOX局の全米中継で拾われて何度もリプレーが放映されたそうです。(マー君にV弾選手 まぬけ発言


 「なんてまぬけな…あいつは俺に直球を投げてきたよ」という日本語訳を読む限り,まあそんなに目くじらを立てなくてもいいんじゃないかと思えます。

 ただ,実際の音声を聞くと,Fで始まる別の単語も使われていて,どうもかなり下品で挑発的な表現になっているようです。

 やはり,英語で言われると腹が立つ表現であっても,日本語に“翻訳”されてしまうと,あまり腹が立たない(心が動かない)ということはあるんだなと思った次第です。
 

サバイバーズ・ギルト覚書―震災記(20)

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サバイバーズ・ギルトはいつ生まれたか?

 昨年放映された大河ドラマ「八重の桜」のヒロイン山本(新島)八重は,酸鼻をきわめた会津戦争生き残りでした。

 今年放映されている大河ドラマ「軍師官兵衛」の第1回は「生き残りの掟」というタイトルで放映されました。

 新美南吉の「ごんぎつね」や夏目漱石の「こころ」など、国語科教科書に収録されている定番教材の多くが生き残りの罪障感(サバイバーズ・ギルト)をモチーフとしているのですが,テレビドラマや映画にも同じモチーフが繰り返し登場します。

 中央大学の宇佐美毅さんも「『ノルウェイの森』と『家政婦のミタ』の共通点」としてサバイバーズ・ギルトという問題を取り上げています。

 そしてこれらはどうやら敗戦後に特有の現象であり,日航機墜落事故阪神淡路大震災JR福知山線脱線事故東日本大震災など,大規模な事故や災害が起こるたびに改めて注目され,芸術家たちの創作衝動に影響を及ぼしてきたと言えます。

 しかしそれならば,応仁の乱とか関ヶ原の戦いとか,天明の大飢饉とか戊辰戦争とか,日清戦争日露戦争とか関東大震災とか,多くの人命が一度に失われる大事件が起こるたびに同じようなモチーフに支えられた文化が生み出され,享受されてもよいのではないかと思われます。

 たとえばこのブログが始まった頃,あるいはその少し後で私が「定番教材の誕生」という連載を書いた頃,ウィキペディアには「サバイバーズ・ギルト」という項目はありませんでした。

 そういう問題が日本で明確に意識されるようになったのは,ごく最近のこと,せいぜいここ20年ほどのことに過ぎません。

 もしかすると,1914年7月28日に始まった第一次世界大戦において,戦闘ストレス反応(シェルショック)という症例が問題視された頃にその淵源をさかのぼることができるかもしれません。

 しかしたかだか100年前のことにすぎませんし,サバイバーズ・ギルトという形で問題が明確に意識されていたわけでもありません。

 中世や近世,あるいはそれよりも前の時代にサバイバーズ・ギルトが人びとを苦しめるということはなかったのでしょうか。

 戊辰戦争や西南戦争,三陸大津波や関東大震災を体験した人びとがサバイバーズ・ギルトによって精神的に不安定な状態に陥るということはなかったのでしょうか。

サバイバーズ・ギルトを生み出す条件

 中世や近世,あるいはもっと昔のことになるとまるで想像できないのですが,少なくとも明治時代や大正時代においては,サバイバーズ・ギルトが芸術や文化の領域で主要なモチーフとなることはなかったように思われます。

 そういう傾向はやはり,20世紀後半から今世紀初頭にかけて顕著になっていると言えます。

 それはいったいどうしてなのでしょうか。

 ひとつには戦没者の数の違いが影響しているかもしれません。

 帝国書院の戦争別死傷者数という資料を見ると,軍人・軍属の死没者数は,日清戦争が1万3,825人で日露戦争が8万5,082人であるのに対して,日中戦争は(1937~41年)18万5,647人,日中・太平洋戦争(1942~45年)では155万5,308人にものぼります。

 日中・太平洋戦争の場合,軍人・軍属の死没者に加え,民間人の死没者39万3,485人が加わります。

 これらの死者の周辺には,戦友を見殺しにせざるを得なかった体験を抱えた復員兵や,空襲の混乱の中で肉親や知人を見捨てて生き延びるしかなかった人たちなど,サバイバーズ・ギルトに苦しむことになってもおかしくない人びとが大勢いたはずです。

 メディアが発達したことによって情報が共有され,自らが死者たちの運命に関与しているという当事者意識を持ちやすくなったということも,罪障感を生み出す要因のひとつになっているかもしれません。

 一方,中世や近世の人びとは,死や死体が日常世界から遠ざけられている現代社会に比べ,昔の人びとは死や死体に慣れてしまっているぶん,いちいち罪障感など感じていらなかったということなのかもしれません。

 すれ違う人と挨拶を交わすのが当たり前である地方の小さな村落とは異なり,都会の人びとが雑踏を歩いているときにいちいちすれ違う人に反応しないように,あまりにも死が身近にあり,日常的に死体(しかも腐乱した死体)を目にすることが当たり前の時代であれば,生き残りの罪障感など感じている余裕はないということなのかもしれません。

被災地の臨床医が教えてくれたこと

 そんなことを考えている私にとって,少しばかり意表をつかれるような文章を読みました。

 福島県の相馬中央病院で内科医をなさっている越智小枝さんの「被災地が教えてくれた現代社会の“風土病”」というコラムです。

 震災後3回目の春を迎えた今年の4月に書かれたものですが,人工物のなくなった浜の大地と自然は以前より栄えているかのようにすら見えると越智さんは書いています。震災によって見えてきたのは,自然と人間の解離だと言うのです。

 福島県には滝桜で有名な「三春町(みはるまち)」という土地があります。この土地の名前の由来は、春の象徴である三種の花、梅、桃、桜が同時に咲くことから名づけられたそうです。
 三春町に限らず、福島県の春は唐突に、かつ一度に訪れます。桜と梅が一斉に咲くだけでなく山吹とレンギョウの黄色もきれいに混じります。足元にはツクシと水仙と菜の花が咲き、ウグイスがさえずる中ツバメが飛び交い足元ではカエルが鳴いているのですから、こちらの俳人は季語をどうしているのだろう、と要らぬ心配までしてしまいます。
 そのような春爛漫の中、インペリアルカレッジ・ロンドンの医学部6年生、アリスさんが被災地見学にいらっしゃいました。晴天に恵まれた海沿いの通りを立ち入り禁止区域まで南下するドライブをしながら、いろいろなお話をさせていただきました。
 途中、真っ青な海と花盛りの山を見ながら、彼女がつぶやいた言葉が印象的でした。
「こういう景色を見ていると、人間以外の生き物はすべてが幸せそうに見えますね。人間がいかに社会的な生き物か、ということに気づきます」

 「こういう景色を見ていると、人間以外の生き物はすべてが幸せそうに見えますね。人間がいかに社会的な生き物か、ということに気づきます」というアリスさんの話は確かに印象的です。

 
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 春や夏,生命が盛んに活動している時節に被災地を訪れた方なら,アリスさん言葉は実感をともなって受け止めることができるに違いありません。(写真は福島県浪江町請戸地区。地平線中央やや左の建造物は福島第一原発)

 私も宮城や福島の被災地を緑豊かな季節に訪れていますから,越智さんが紹介するアリスさんの言葉を読んで「なるほどなぁ」と思いました。

 ここまでは私にもすんなりと飲み込める話でした。

 しかしこのあと越智さんは,自然と人間が解離しているように,人間と人間も解離しているという話を始めます。

 越智さんによると,人間の中にも「失う人と“失わない”人」がいるというのです。

 この話は,私にとって意表を突かれるものであると同時に,サバイバーズ・ギルトについて考えていたことに対する重要な示唆を与えてくれるものでもありました。

 そこに何が書いてあり,そこから私がどのような示唆を受けたのか…ということについては,また改めて…。

 気になる方は,越智小枝さんのコラムをぜひ読んでみてください。




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